この世に真の堅固な満足はなく、われわれのあらゆる楽しみはむなしいものにすぎず、われわれの不幸は無限であり、そしてついに、われわれを一刻一刻脅かしている死が、わずかの歳月の後に、われわれを永遠に、あるいは無とされ、あるいは不幸となるという、恐ろしい必然の中へ誤りなく置くのであるということは、そんなに気高い心を持たなくとも理解できるはずである。
これ以上現実であり、これ以上恐ろしいことはない。したいほうだい強がりをするがいい。これがこの世で最も美しい生涯を待ちもうけている結末である。
(「パンセ」、中央公論新社、パスカル著、前田 陽一、由木 康訳)
初っ端から暗い引用を載せてしまって恐縮なんですが、最近どうもこういう感じの気分が強く、昔からいろいろな人が似たようなことを言っているのを見るにつけ、多少慰められるような気持ちがします。
パスカルに関して言えば、「なんで世間の連中はこの事実をまじめに取ろうとせず、平気な風で生きてられるのか?」っていう、憤りとか困惑みたいな部分まで書いているので、一方的に共感してしまいます。しかし、こういうことを言ってる西洋の知識人はだいたい最終的にキリスト教に帰着してしまうので、いつも置いてきぼりを食った気分になりますね……
実際のところ私は、絶対者や魂の不死を信じられないままで、本当の意味でこの虚無感に対処することが可能なのかというのを、かなり疑ってはいます。自分自身で価値を見出して本質を作り上げようとか、不条理と向き合い続けながらこの瞬間をより良く生きようとか、感動的ではありますが、現実問題としてその考え方を維持できない以上、私にとってはただの「強がり」に過ぎないのではないか。とはいえ、どんなに考えたところで、私の世界に神はいないのです。
いつかの日記で、私には空白恐怖症的な傾向があると書いた気がするんですけど、最近になっても相変わらずで、ちょっとでも何もしていない時間があると不安になってしまいます。不安というより焦りを感じるというほうが近いか。私には時間が必要なのか、それとも暇な時間など無いほうが良いのか分からなくなります。
かと言って、何かをやっていれば安心かというと全然そんなことはなく、今度は「こんな事をやっている場合ではない」という別の焦燥感が押し寄せてきます。何をやってても時間を気にしてしまうし、貴重な何かを空費しているような気がしてならない。 これ詰んでるんじゃないか? 当然、じゃあお前は何をやるべきだと思ってるんだよ、という話になってくるんですが、私には具体的にやるべきことなど思い当たらない。これはいったいどういうわけでしょう。
困った、困った。私は何にも意味を見出せないといって嘆いてみせつつ、音楽や物語には特権的な価値を認めている人間です。おそらく、私が比較的信用することができるものは二つあって、一つはフィクション作品であり、もう一つは(理解や知識の習得による)自己の向上ということになるでしょう。しかし、私はこれらさえも無条件に信ずることはできない。本を読んでいても、何か新しいことを学ぼうとしている時でも、なにか他にやるべきことがあるような気がしてしまいます。
罪悪感と言っても良いです。だが何に対する罪悪感なのでしょう。私は他者に対しても、自分に対しても、何の義務も負ってはいません。「~しなければならない」というような対象は、今の私の外側には見つからない。しいて言うなら、十分に考えていない、ということに対する罪悪感なのかもしれません。衝動的に散歩へ出るのも、隙間を恐れるように本を手に取るのも、つまりは自分自身からの逃避です。パスカルの言うところの気ばらしです。彼はあくせく働く人々から、その忙しさを取り去ることについてこう言っています。
なぜって言えば、そうすれば、彼らは自分を見つめ、自分が何であり、どこから来て、どこへ行くのかを考えることになろう。そういうわけで、いくら彼らを忙しくさせても、気をそらせても、しすぎることはないのだ。
……
人間の心というものは、なんとうつろで、汚物に満ちていることだろう。
(同上)
私たちは黙って自分自身と向き合うことに耐えられません。自分が何者であるか考え、その死や悲惨を眺めるのは惨めなことです。思えばそれゆえに、私は無為に憧れつつも、結局「何もしない」ということに失敗し続けてきたのでしょう。しかし、考えることから目をそらし続けている、というので罪悪感を覚えているのが今の状態なわけで、そんな風になるくらいなら、たまには存分に空白と向き合ってやっても良いのかもしれません。
とにかく私は考えなければならない、と思います。