以下の内容はhttps://nolonger.hatenablog.com/entry/2025/05/31/205322より取得しました。


自由意志は必要か(息吹、失楽園等)

『息吹』という短編集が面白かったので、感想文……というか前々から考えていたことを思いついた順に書きます。タイトルの通りですが、いまさら私が付け加えられることもないので、特に目新しい内容はないと思います。ただの再確認です。しかし当たり前のことでも自分の中で整理しておくのは意味があるかなとは考えています。

 

決定論的世界観における自由意志

どう足掻いても覆せない種類の予言というものがあります。

ここで考えるのはクロノスに対するウーラノスの言葉でも、オイディプスやその父王に対する神託でも、もしくは一部のタイムスリップものにおける未来からの忠告でも良いのですが、そもそもこれらの土台にあるのは決定論的な物の見方です。

 

ここで決定論的と言っているのはそんなに厳密な用語の使い方ではなくて、変えようがない未来が予め決まっているという程度の意味だと思ってください。我々がどんな行動をしようとも(未来に起こることを知っていて、それを回避するために力を尽くした場合でさえ)、運命にはそのすべてが織り込み済みなので、結末は何も変わらないというパターンの話ですね。

 

まあ現在の世界の状況をすべて把握していて、それらがどう変化するかを完璧に知っていたならば、未来に起こることは予測可能だというのは素朴な見方だと思います。神という超自然的な存在ならそのくらいの深慮遠謀は当然で、時には神託によって、人が運命を知ることもある。昔は身近な人が命を落とすことも多かったでしょうから、「そういう運命だったのだ」ということで納得しようとした部分もあるんじゃないでしょうか。

 

普通のSFの文脈だともっと理屈っぽくて、時間旅行した時に起こる現象の辻褄を合わせるにはそう考えるのが一番シンプル(並行世界とか持ち出さずに済む)だというのが理由の一つなんでしょうけど。現在を変えようとしてタイムマシンで過去へ行き、結果として目的を果たしたなら、そもそもの動機が消失してしまいますからね。

 

とにかく何もかもが予め決まっていて、我々はその運命を一切変更することはできないのだという考え方は一面において絶望的です。過去も、未来もすべてが決定済みであり、他では有り得ないのだということなので、意志のない機械や転がり落ちる石ころと、人間を本質的に隔てるものは存在しません。

 

こういう絶望から逃れるためにどうすべきか、私も昔いろいろ考えたのですが、結局は柔らかい決定論と呼ばれるものに近い考え方に落ち着きました。たとえばAがBを殺したとして、Bを殺さないという可能性が一切存在せず、この殺人が(字義どおりに)運命づけられた不可避のものであったとしても、殺すという決心をしたのはあくまでA自身であるという見方です。

 

本人の意志も含めて全部が予め決まっているということとは確かなんですが、しかしそのように意志したのは私自身であり、その結果に対する責任も私が負おう、っていう。ある意味で運命愛的な受容の仕方ですが、固い決定論より納得のいく落としどころではあると思います。もしもイベントが決定論的であることによって本人の責任が免除され、行為に対する感慨が無意味なものになるなら、それこそ意志もクソもありません。だったらオイディプス王は両目を潰す必要はなかったし、人間が楽園喪失の憂き目を見ることもなかったでしょう。

 

例に出したので失楽園の話をします。この作品における神は、堕天使たちの叛逆と人間の堕落を予見していたにもかかわらず、それを未然に防ごうとはしません。彼が欲するのは自由意志による信仰と恭順であるからです。全知全能である以上、すべての天使たちに「強いられたハレルヤを歌いつつ彼の神性を称賛」させ続けることもできたはずなのに、それを良しとはしないのです。

 

この場合はさっきまでと違って、唯一の絶対者である神は運命を変えうるのですが、彼はその権利を行使しません。だから結果的には、既に予知されていたように、サタンは麾下の天使達を率いて反乱を起こしますし、アダムとイヴは善悪を知る木の実を食べてしまいます。

 

ここで、アウグスティヌスのように「創造された当初の人間には罪を犯さないという選択も可能であった」という言い方をするなら、このエピソードを決定論のところに含めるのは不適当にも思えます。ミルトン自身もキリスト教教義論の中で「アダムの堕落は確実ではあったにしても必然的なものではなかった。彼の堕落が彼自身の自由意志から出ており、自由意志は必然性とは矛盾するものであるからだ」と述べています。

 

しかし自由意志が必ずしも必然性と矛盾するものではない、というのは上で見たところです。私の立場としてはむしろ次のように言いたいと思います。

全知である神が予め結果を知っていて、かつ干渉しなかった以上、人間の堕落は必然的であったけれども、善悪を知る木の実を食べるという選択をしたのは、あくまで彼ら自身なのです。

 

人間の責任が、神が彼らを放任したという事実によって免除されるかというと、そんな事はない。結末がすでに決定されていて、それが蛇の誘惑という外因によって齎された逃れ得ないものだったとしても、最終的に彼らは自分の意志と責任において行動し、楽園から追放されたのです。しかし自由意志によって犯された罪は、同じく自由な決断によって贖われうるでしょう。

 

未来が決まっているケースでさえ、(通常使われる意味ではないにせよ)なお自由意志が存在し得るというこの結論は、我々にいくらかの慰めを与えるかもしれません。

 

可能性の絶望

ですが、私は自由という言葉の甘美さと勇壮さに騙されてはいないでしょうか。確かに絶対的なものへの反発、自らの手で未来を掴み取るのだという態度は非常に感動を誘います。マンモンの、

 

絢爛たる奴隷生活の平穏無事な軛よりも、苦難に満ちた自由をこそ選ぼうではないか!

 

というフレーズをはじめとして、失楽園の序盤は力強い台詞に満ちています。というか私がこの作品を好きな理由の大半はその辺りです。明らかにこの作品から強い影響を受けている詩人、ウィリアム・ブレイクも指摘していたように、ミルトンが自由を求める悪魔たちにかなり肩入れしていたのは間違いありません。

 

けれど、彼らの台詞は英雄的であると同時にどこか空疎です。私はサタンに対して天使アブデルが言い放った、

 

汝自身、自由な身どころか自分自身の奴隷になっているではないか。

 

というのが、言葉の上では勇ましい悪魔たちへの致命的なカウンターになっていると思います。概して失楽園では堕天使側が魅力的に描かれており、天界の方はそうでもないのですが、このアブデルは例外です。

 

彼はサタンの企てに扇動される天使たちの一団の中、唯一決然とした言葉を発してその場を離れるのですが、上の引用は、ついに天へと攻め上ってきたサタンと再び対峙し、剣の一撃でもって相手を十歩も(!)よろめかせた際の台詞です。サタンの敗北はこの時点ですでに決定的だったと見て良いでしょう。

 

話が逸れましたが、完全に自由であることが必ずしも良いことかというと、当然そういうわけではありません。絶対的な運命に対して我々が覚える感覚は、キルケゴールが言うところの必然性の絶望にあたると思うのですが、その対極にあるのが可能性の絶望です。

 

無限の可能性に溺れて自分を見失い、何をどうしたら良いかわからなくなってしまう。未来において全てが可能であって、その選択権が自分に委ねられているというのは途方もない重荷です。正しさというものがそもそも存在せず、何を選ぼうと責任はすべて自分自身にあるからです。無神論相対主義の果てにはこのような自由の刑があります。

 

ところで、私は幼少期に地域の子供向けコミュニティや祖父母の家で宗教に触れる機会が多く、割と素朴に信仰へと接近しようとしていた方ではないかと思うのですが、それは「信じようとしていた」というのに過ぎませんでした。内心において試みた、確固たる意味を前提とする考え方でさえ所詮は真似事に過ぎず、結局分かったのは、自分には無条件に何かを信じる能力が無いのだということだけでした。

 

この世には何の意味もなく、すべては私自身が決めるしかないのだというのは、たとえ事実であっても苦痛の源泉です。失笑ものですが、私には割と素面で大審問官的な何かを求めていた時があります。しかしこの世には目に見える奇跡もなければ、自由を預けるに足る何者も存在しないのでした。

 

意味の不在と偶有性

私が今やっているように、経験を事後的に物語ることで、自分の人生に何らかのストーリーや目的を付与することはできるでしょうが、現在まさに自分が生きているこの瞬間には何の意味も存在しません。現実の世界には目的も意味もなく、一切はどこまでも偶有的です。

 

現代における標準的な模型を信用するのであれば、今この宇宙に存在している構造は、結局のところインフレーションを駆動する場(粒子と呼んでもよいですが)の量子的なゆらぎに由来します。星も銀河もすべてです。

 

物質の存在は時空の歪みを引き起こしますから、この摂動によって重力場にも非一様性が生じ、ある地点には塵が集まるが、ほかの場所には全然集まらないということが起こるわけです。この重力による凝集があらゆる構造の起源だと考えられています。

 

場の量子ゆらぎがもしも存在しなければ、我々の宇宙はどこもかしこも特徴のない、のっぺりとしたスープみたいなものだったかもしれません。今の宇宙に存在する凸凹──銀河団や超空洞、ひいては私たちの生まれた星は、原初の宇宙における偶然性の産物なのです。

 

量子ゆらぎに由来する初期条件がほんの少しでも違っていたら、宇宙の大規模構造形成も違った経緯を辿り、現在の星や銀河の分布は全く異なったものになっていたことでしょう。そのような無数の可能性の中で私たちは存在している。まさに奇跡! これは私たちという存在の希少さ、かけがえのなさを示すものでしょうか。

私はそのようには感じません。

 

量子論を特徴づけるのは本質的な非決定論性です。状態間の遷移はあくまで確率的であり、最初の時点で次の状態を確実に予測することは原理的に不可能です。現在の世界がこのようにあり、その中で私たちが生きているのはまったく偶然の産物に過ぎない。私たちが存在していようと、そうでなかろうと、どちらでも良かったのです。どちらにしても同じことです。

 

少しスケールダウンして、私たちの意志の話に戻ります。通常、人間くらいのマクロな物体について考えるときにはほぼ量子効果が効かないので、決定論的な古典物理学の範疇で議論ができることが多いです。そうすると私たちの行動は事前にすべて決定されているのではないかという冒頭の話題に戻るわけですけど、そうではない立場もあります。

 

例えば意識や自由意志の発生には量子効果が本質的であるという理論です。実際これが妥当な立場かということについては判断を保留させてもらいたいのですが、逆に人間の意志が完全に決定論的なものかというと、そんなこともないように思います。複雑な系に入力される初期条件が量子的なゆらぎの影響を受け、最終的にまったく異なった結果をもたらすというのも、初期値鋭敏性(バタフライエフェクトで有名なやつ)の話を思い出せばありえないことではありません。

 

じゃあ私は、この量子効果によって生じる、脳内の電気信号のぶれ・・を自由意志とみなすのでしょうか。最小作用の原理から導かれた古典経路の周辺に広がっている、無数のありうる経路のうちの一つが確率的に選択されることによって、自由な行動がなされるとでも言うのでしょうか。

 

それでは単なる偶然の遊戯です。目隠ししたままプレイされているピンボール・マシンの球が人間なら、その行動にはいかなる必然性もありえません。完全な決定論と対極にありながら、やはりこれも絶望的に思えます。

 

決定づけられた宿命を自分自身の責任で歩んでいくというのであれば、まだやりようもあったかもしれませんが、今度はそのように行為者としての尊厳を保つような在り方さえ困難です。だって全ては無意味な偶然の産物で、私はせいぜい3×10^9s程度で消滅する、ちょっとした励起状態のようなものでしかないのですから。

 

コペルニクスの原理

『息吹』の中の一篇「オムファロス」は、地球が神により宇宙の中心として創造されたことを示唆する物証が実際に残っている世界を舞台として、実は宇宙の不動点が地球ではなく、ほかの星であったことが明らかになる話です。登場人物たちはこれによって、「神は特別なかけがえのない場所として地球を作ったのだ」という従来の確信を覆されることになります。

 

実際の世界でも、物理学は宇宙原理と呼ばれるものの上に立脚し、観測事実を非常に高精度で説明することに成功しています。これは我々の宇宙を大局的に見れば、どこへ行ってもどちらを向いてもほとんど同じような景色が広がっているという仮定です。もちろん地球は特別な場所でも何でもありません。コペルニクス以来のこういう立場は、(少なくとも目的論的な意味においての)私たちの特別性や存在意味に対する期待を徹底的に剝奪するものです。

 

私たちはこれを、「定められた目的ではなく、自分自身で決めた道を進むのだ」という啓示として肯定的に受容することができるでしょうか。その道は、自分で決めたように思いこんでいるだけで、実際には偶然の積み重ねによって生み出された無意味なものでしかないかもしれないのに? そんなことを自覚しながら生きるくらいなら、たとえそれが屈従でも、運命に従って生きるほうがよほど楽です。

 

しかし、我々に目的を示してくれるかもしれない神は、ずっと沈黙しています。いるにせよ、いないにせよ、結果は同じです。私は今回の表題に対して明確な結論を出すことはできません。出したところでどうにもならないでしょう。

とりあえず、最後に「オムファロス」の終わりの文を引いておきたいと思います。

 

たとえこの宇宙が作られたのが人類のためではないとしても、わたしはやはり、宇宙の仕組みを理解したいと願っています。わたしたち人間は、”なぜ”という疑問の答えではないかもしれませんが、”どんなふうに”という問いの答えを探しつづけるつもりです。

 

この探求がわたしの目的です。主よ、あなたがわたしのためにお選びになったからではなく、わたしが自分でそれを選んだからです。

 

アーメン。

 

(「オムファロス」、『息吹』所収、早川書房テッド・チャン著、大森望訳)




以上の内容はhttps://nolonger.hatenablog.com/entry/2025/05/31/205322より取得しました。
このページはhttp://font.textar.tv/のウェブフォントを使用してます

不具合報告/要望等はこちらへお願いします。
モバイルやる夫Viewer Ver0.14