5月に入ってから私の頭はずっと眠っているも同然だったので、あまり書くことがありません。本を読んだ。以上。
本当に何も無いなら、潔く何も書かないほうが良いだろうとは思うのですが、それでも書かなきゃならないような気がしています。あまり間が空きすぎると、私にとってこの場所が腐ってしまう。今回はもう本当に何も考えず書きたい。こういうのなんて言うんでしたっけ。自由連想法? 考えまいとしても結局考えてしまうので、無意識とはいきませんが。とにかく推敲はしない。いつも大して推敲なんてしていませんけど。
腐臭
私は自分がしゃべったり書いたりしたばかりの内容については、多少なりとも自惚れることができます。まだ冷静になっていないからです。オプティミズムは物事を正しく認識する能力の欠如から生じるのだ。深夜に思い付いたアイデア、夢の中で耳にした格好いいメロディ。魔法が解ける前のまやかしですね。要するに「恥<勢い」なので無敵です。そういう時期がなければ、ただでさえ無意味なもので満ち溢れているネット上に、このうえ無益な文字の羅列を付け加えようという発想にはならない。
まあ定期的に投棄を続けているうちはいいんですよ。転がる石には苔が生えないっていうじゃないですか? 惰性というのは必ずしも悪いことではありません。よく言えば確立された習慣ってやつです。とりあえず続けていれば、そこまで変な衝動は沸いてこない。問題は続けられなくなったときです。
たとえば一か月このブログを放置して、然る後に各記事を見直してみたとします。私はほぼ確実にすべての記事を消去することでしょう。他人が昔書いた内容というのは、多少の粗や未熟さがあっても微笑ましく思うものですが、自分のそれについては容赦することができません。鮮度があるんです。一定期間放置されたら耐え難い異臭を放ち始める。そういう経緯で私は日記を捨てたりブログを消したりしてきたんですね。さすがに学習したので、今回はあまり間を空けないようにしていて、そのお陰か突出して最長記録を達成しています(まだ二か月も経っていませんが)。
いつまで保つか。私が一つのことに飽きるまでの平均期間は三か月だと言われています(誰によって?)。はたして7月まで続けられるでしょうか。せっかくだから続けたいですね。私は常になにか書いたり作ったりしていないと罪悪感を覚えてしまうタイプなのですが、今はこの世に対して主張したいことが特に何もないし、それほど強い苛立ちや衝動を抱えているわけでもないので、何となく思ったことを書くくらいがちょうど良いです。そういう願望を満たすためには、こういうブログという形式が適している気がします。なんとか腐らせないようにしたい。
(それほど不幸ではない)無気力
ところで、私は個別具体的なものに対して愛着や憎悪を抱き続けることが全然できない人間です。例えばある人にすごく親切にされたり、あるいは逆に嫌な目に遭わされたとしても、離れてちょっと経つとすぐ忘れてしまいます。悪く言えば恩知らずなんですけど、特定の人や物事に恨みを持ち続けられないというのは割と気に入っているポイントです。ただでさえ全部を悪い方に捉えがちなのに、そのうえ攻撃性まで高かったら手に負えないですからね。いつまでも憎悪を持ち続けているよりは生きやすいだろうと思います。
ただ、少し困ったことに、私が特定の出来事から受けた恩恵や苦痛は、すぐ抽象的なものに対する感情に昇華されてしまって、大本の原因が自分でもよくわからなくなってしまう場合が多いです。私はこの世とか、種族としての人間全体に対する怨嗟を抱えがちなんですが、何か嫌なことがあってそういう考えになっているだけなのか、それとも本気でそう思っているのか区別がつかない。
なんでいきなりこんな話を始めたのかというと、私は最近、それほどこの世を呪いたい気分ではないからです。これは珍しいことです。客観的に見て満ち足りた状況かというとそうでもないんですけど、たぶん日々の細々した不満が少ないのだろうと思っています。しかしこれまで、私の行動原理のほとんどは漠然とした劣等感とこの世への復讐心で構成されていたので、今、すごく無気力です。だから何も書く気にならないし、せめて能力を高めようと努力する気分にもならないんでしょう。
いや杞憂だ、杞憂。どうせ、こんな小康状態は長続きしないはずです。ひと月、二月も経てば元通りになるに決まっています。あるいは本気で丸くなったんでしょうか? そんなのは堕落じゃないでしょうか? しばらく前の私なら、「自分は感性の鈍麻を成長とは呼びたくない」とか言いながら、嬉々として、この「不幸ではない状態」にある私自身を罵倒し始めるはずです。エラスムスとか引き出してな。自分の不満足さにアイデンティティを見出すのも、それはそれでどうかと思いますけど。憂鬱で孤独な人間は不幸に酔うしかないんですが、酔いが醒めても困ってしまいますね。