程度の差こそあれ、人ってあるジャンルで初期にハマったものに過剰な思い入れを抱く傾向があると思うんですよ。いわゆる思い出補正みたいなのもあると思うんですけど、自分に対して初めての世界を見せてくれたり、思いもよらない嗜好や思想を植え付けてきたりするので、良くも悪くもその作品が聖典みたいな立ち位置になってしまう。
あとで同ジャンルの作品を漁ってみてもどうしても比較してしまうでしょうし、若いうちだと他の作品に対して「○○のパクリ」みたいに言い出す人もいますよね。一時期よくネット上で鬱陶しがられてた感じの……もちろん褒められたことじゃないですが、それだけ特定の作品から受けた印象が強烈だったということでしょう。
無意識のうちに、その「最初の作品」が他のものを評価する際の物差しになってしまっていて、それによって違う楽しみ方を見出せる場合もあるとは思いますが、どうしても頭にこびりついて離れないわけですから、それを一種の呪縛と呼ぶこともできます。
多感な時期に触れて人格や考え方レベルにまで影響を与えた作品。
物事を受け取る際の枠組みとして、もはや自動的に組み込まれてしまったもの。
人によって千差万別だとは思いますが、私にとってはその枠が「ヨブ記」でした。元々有名だから内容は何となく知ってたんですが、ちゃんと読んだのはサンホラ(というよりRevo名義のアルバム)経由だったと思います。
あらすじは私が説明するまでもないと思いますが、非の打ちどころのないほど信心深い善人であるヨブという人物が、いきなり神の手で理不尽な苦しみを味わうことになり、ついには神を相手どって「この苦痛の理由を明らかにせよ」と求めるに至るという内容だけ把握していればいいと思います。
詩文で記述される本論は、何もしていないのに財産や子供たちを全て奪われた挙句、全身をひどい腫物で覆われるという苦難に耐えかねたヨブの恨み言から始まります。そこで神を非難するようなことを言い出したヨブに対し、三人の友人たちが反論していくわけですが、彼らはヨブの主張を引き出すための舞台装置みたいなものだと(私は)思っているのであまり詳しい内容は述べません。
彼らの主張は徹底して因果応報的というか、災いが降りかかるのは罪を犯したからだという内容の一点張りで、罪など身に覚えのないヨブにはまったく無効な内容です。第十三章のヨブの言葉を引いておくと、
「君たちの常套句は灰の格言だし 君たちの盾の中高は泥でできている。」
「君たちはわが前に黙るがよい、わたしが語る。たとえわが身がどうなろうと。」
ヨブを非難する人物としては、彼ら友人のほかに、終盤で急に出てくるエリフという人物がいて、その人の主張も似たようなものです。ただ、彼の弁論は、のちの神からの回答の予告みたいな内容を少し含んでいて、神の道理が人間に測れるものではないことを強調している気はします。
でも、やはり注目すべきはヨブの嘆きと主張、それから神の答弁の部分でしょう。
特に第三章におけるヨブの独白には凄まじいものがあって、ここだけでもヨブ記を不朽の文学とするに十分なものだと思っています。いくら苦痛の程度が甚だしくとも、自殺するわけにはいかないヨブは、次のように自らの生誕を呪うのです。
「滅びよ、わたしが生まれた日、男の子がはらまれたと言ったその夜。」
「その日には──暗闇あれよ、上なる神その日を忘れ 光その上に照るな。」
「何故わたしは腹から出て死なず 胎から出たまま息絶えなかったか。」
「何故わたしは死産の子のように 光を見ない赤子のようにならなかったか。」
「何故苦しむ者に光を賜い 心悩める者に生命を賜うか、……」(いずれも第三章)
いくら訴えようと、死という救いが与えられることはなく、ヨブはひたすら苦しむことになります。友人たちは、自分自身に罪があるはずなのだから悔い改めなさい、としきりに諭すのですが、ヨブは決してそれを受け入れようとはせず、自身の潔白を主張し、様子を見ているであろう神に対して説明を求め続けます。
このような態度は普遍的に共感を呼ぶもので、だからこそヨブ記は宗教書の枠を超えて受容されてきたのでしょう。私たちはこの世が理不尽な場所であるということを嫌というほど知っています。因果応報なんて現実の世界には滅多に適用されず、ヨブの言うように、
「どちらも同じなのだ、だからわたしは言う、全き者も悪しき者も彼は滅ぼされる、と。」
「大水が突然人の生命を奪っても 彼は罪なき者の困窮を笑っている。」
「地は悪しき者の手に委ねられている。」(第九章)
といったところです。
世界が何故このようであって、どうして私がその中に存在しなければならないのかというのは、単なる好奇心からの問いではなくて、だから現実の不条理さ、残酷さへの異議申立てという形をとるのです。ごく素朴に考えて、何の罪もない人間が虐げられ、苦しみ抜いて死んでゆく(それが無垢な子供であっても!というのがイワン・カラマーゾフの主張)ような世界が許容されてよいはずがありません。
しかしそれが現実の世界というものであり、我々はどういうわけかその中で七転八倒する羽目に陥っているわけですよね。ハムレットは"my good friends, what have you done to anger the fates that they have sent you here to this prison?"と尋ねましたが、そんなこと何もしていないというのが答えでしょう。我々は何かの報いによって苦しんでいるわけではなくて、ただ単に、世界は厳然とそこに聳え立っており、人間の苦痛や訴えとは無関係に在り続ける。
最後、神はヨブの弁論に対して回答するのですが、その内容を雑にまとめてしまえば、お前のような人間ふぜいに私の考えや力が理解できるはずがない、という感じです。これは別に神の傲慢さを表すものではなくて、実際、この世は決して人の道理で理解しきれるものではなく、納得できる答えなど示せるはずがないのですから、宗教は置いておいても単なる事実とみるべきです。
ところで私は、先に述べた第三章と並んで第四十一章がとても好きです。ここは神が、自身の造った「わに」(原語ではレビヤタン)の強大さを語る部分で、『こんな偉大な生物を造れる私の考えをお前(ヨブ)が判断できるわけがなかろう』という意図で言ったのだろうと考えているのですが、並置されている「かば」と比べて妙に描写に熱が入っている気配があります。さっき言った音楽アルバムにも引用されている部分ですが、
「その心臓は石のようにかたく、うすの下石のようにかたい。」
「その威光の前に神々も恐れ、肝をつぶしてひれふす。」
「彼を襲う者の剣も役立たず、……投槍の騒音をも彼はあざける。」
「地の上に彼に比すべきものなく 彼は恐れを知らぬものに作られた。」
「すべての高ぶる者も彼の前に恐れ 彼はすべての誇り高き獣の王である。」
「見よ、君の望みは空しく 彼を見ただけで人はうち倒される。」(いずれも第四十一章)
まさに我々を容赦なく轢き潰す巨大な怪物、盲目的な運命を象徴的に表しているかのようです。引いたのは一部分ですが、私はこれ以上的確かつ絶望的に、いつも私たちの上にのし掛かっている何物かを表現した文章を知りません。
どんな抵抗をしても所詮は無駄であり、私たちは受け入れるしかないのだということを思い知らせてくる描写。本来苦々しいはずのそれがここまで魅力的に思えるのは、誰もが持っている自滅的な破壊衝動みたいなものにちょうど合致しているからでしょうか。怪獣映画とかのカタルシスに近いかも。
内村鑑三に言われるまでもなく、私にとってはペストも、白鯨も、壁の巨人も、生体金庫も、書の魔獣も、すべてレビヤタンの変種であって、ムイシュキン公爵も、ファウストも、セバスチャン・ロドリゴも、ディディとゴゴも、フランケンシュタインの怪物も、全部がヨブの変奏なのです(妄言)。
最終的にヨブは、神が自身とは隔絶された存在であることを悟り、とても神の考えなど理解できたものではないという事実を謙虚に受け入れることで救われます。といっても、沢山の新しい子供が生まれ、財産が倍になって帰ってきたところで、元の子供達の死と、既にヨブの味わった苦痛が報われるわけではないのでしょうが。
そういうわけで、信仰を持たない読み手としては納得のいかない部分もありますが、このヨブの態度は極めて正当なものだとは思っています。むしろこの世を直視したうえで信仰を持ち続けるなら、私としては他のやり方が思いつかないです。
しかし、最後のヨブのような態度が要求するのは無限の忍従と、絶対的かつ無条件な信仰であって、私たちはそこに美しさを見出すことこそできるものの、自分がやれと言われたら無理じゃないでしょうか。
本来ヨブ記は信仰の話です。神を信じることのできない私が勝手な解釈をするのは良くないのは分かっています。しかし、それでもあえて一般的な話に拡張することが許されるのなら、これは、「どんなにこの世が理不尽で苦しいものであっても、それをあるがままに、恨むことなく受け入れよ」ということで、そんなことができたら超人でしょう。
一方で、これとまったく対極の立場も考えられます。先ほど触れたイワンのように、この世の不条理を徹底的に拒絶し、世界そのものに否認を突き付けるという態度です。この立場にある者にとって世界は敵であり、彼は生きている限り、レビヤタンに象徴される運命に対して絶え間ない戦いを挑み続けることになるでしょう。が、そんなことを続けていたらどんな風になるかということは、エイハブ船長やらイワンの末路を見れば明らかです。
結局、私たちがこの世に対してどういう立場をとるべきかというのは分かりません。私は学生時代、なんとか自分なりの回答をひねり出そうとして、ヨブ記への反論とも感想文ともつかない大長編(五十万字くらいあったと思う)を書いたことがあるのですが、結局不満足な出来に終わりました。
つまり私の中でヨブ記の提示する問題は未解決のままであって、これからも何かにつけてブログの中で言及することになると思います。ただの発作みたいなものなので「また言ってるよ」みたいな感じで適当に流していただければ……