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番外 対談 中国を考える 司馬遼太郎 / 陳舜臣(1978)

 大阪外国語学校で同窓だった2人の対談集。かたや「史記」の司馬遷からペンネームを頂くほど中国への興味がつきない司馬遼太郎。こなた中国旅行の際に現地のガイドから感想を問われ、即興で返した漢詩の完成度に驚愕された、まるで空海のようなエピソードを持つ陳舜臣

 「博学」と言うよりは「碩学(せきがく)」と呼ぶに相応しい2人の対談は、「刺身」をとっかかりとして日中の繋がりを紐解き、舞台は紀元前の春秋戦国時代へと飛びます。遊牧民族の胡服を取り入れるのに苦労した趙国の武霊王宮城谷昌光楽毅」で登場)に対して、襷を簡単に思いつく日本人の民族性の違いを浮き彫りにしています。

 話題は急に近代まで戻り、20世紀の中国や日本との関わりを「腑分け」していきます。1898年に起きた変法の改革を主導した康有為とその弟子の梁啓超から始まり、アヘン戦争で重要な役割を果たした林則徐から、會国藩李鴻章、そして袁世凱(「不思議と近代の臭いがしない」と司馬さんは苦笑)へと繋げていきます。

 

 

陳舜臣(左)と司馬遼太郎文藝春秋

 

 「民族の精神まで食い荒らされて、むろん国土も食い荒らされて、最終的には奴隷になるということを中国は19世紀以来、体験しつくした」(司馬)。そこから中国は、民族としてどう生きていくか、という問題と向き合い、イデオロギーではなく手段として、共産主義に行き着いたと指摘。この考えは、現在の中国を考える上での視座になると思います。

 そして最後は司馬の生涯の命題、日本人特有の欠点に向います。大陸で文明を興した中国は「徳」が法を優先しますが、日本は「技能主義」をもって歴史を重ねたために、徳よりも法が先行すると語り、そのため公害もモラルではなく法律で縛る考えに行き着くとする考察は至言。

 技能主義が西欧諸国に比べて進んでいるとは思えませんが、中国を基準にして日本を見つめると、新たな視点が見えてきます。徳に重んじる余りに、儒教に特化した科挙という「先進性を全く否定した」試験制度を1000年以上施行した中国に対して、日本は司馬の言う「武士的な合理精神」に資本主義の精神が結びついて、日本の近代化をもたらします。まるでケインズが論じるような「精神」は、賄賂や癒着の政治を(多少は)排する一方、「帝国軍人精神」として形而上に昇華されて、亡国に導くことになります。

 

 司馬が対談の相手に指名した陳舜臣は、司馬から繰り出される「あれ球」を難なく捌きます。司馬が1年先輩の陳舜臣に甘える形で、思いのままに話している印象を受けました。

 

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 中国の歴史小説をくくってきました。最初はトータルで20選のつもりでしたが、あれよあれよと広がっていき、合計60作品に増えました。

 今回取り上げた対談の1人の陳舜臣は神戸生まれの神戸育ちですが、ルーツは中国にあります。初めて「江戸川乱歩賞日本推理作家協会賞直木賞」の三冠を受賞したミステリー作家ですが、近代中国に向きあわなければならないとの思いから、大作「阿片戦争」に取り組みました。

 この作品は文壇だけでなく専門家からも称賛を受けましたが、本人は古代からの中国を知らなければ近代中国を理解できない、と実感したそうです。その気持ちが「十八史略」に向かい、その後に労作「中国の歴史(全7巻)」を著します。それまでありそうでなかった中国4000年の通史を記した作品で、こちらも専門家から評判を得ることになりました。

 

 私も久しぶりに手を取りましたが、今回新たな気づきがありました。第1巻に、1930年代に行なわれた(日本では「殷」の表記が一般的)の遺跡の発掘調査について記されています。この調査によって、神話の一部と思われた王朝が実在し、かつ見事な青銅器や玉器の副葬品から、高度な文明を生み出した国ということが判明しました。

 この調査を指揮した梁思永は、浅田次郎の小説「蒼穹の昴」シリーズの主人公・梁文秀のモデルと言われる梁啓超の次男だと知りました。梁啓超科挙を優秀な成績で合格して将来を嘱望されましたが、清国を立て直すために「戊戌の政変」を起こすも、西太后ら王宮側からの弾圧を受けて日本に亡命します。

 辛亥革命が起きて清王朝が倒れたあとに、梁啓超は中国に戻りますが、亡命中にマカオで生れた梁思永は清華大学からハーバード大学に留学して、当時中国では未開だった考古学を持ち帰りました。ちなみに同じく東京で生れた長男の梁思成は、ペンシルベニア大学からハーバード大学院へと進んで西洋建築を学び、中国建築界の第一人者となりました。

 日本に亡命後、梁啓超が2人の子に「思成」そして「思永」と名付けた心情、また啓超の学殖を引き継いだDNAに思いを巡らすと共に、3000年を超える歴史が私の中で繋がったことに、深い感慨を抱きました。

 

   梁啓超ウィキペディア

 

「中国の歴史」の最後に、陳舜臣はこんな漢詩を披露しています。

 緬想英雄地亦霊  緬(はる)かに英雄を想えば地も亦た霊なり

 千山万水古今青  千山万水、古今に青し

 自憐擱筆人無影  自ら憐れむを擱(お)けば人、影も無く

 絶域中原講那経  絶域に中原に那(なん)の経を講ぜんか

 

 遙か3000年以上前、王朝を建国する力となった伊尹(いいん)が嬰児の時に、洪水の際に木のほこらに匿われて流された河川。そのを滅ぼす教えを受けるために、太公望が奥深く分け入った東北部に在する孤竹の山岳。これらの「千山万水」は、山麓に囲まれた絶域(辺境)の地で、人民公社によって労働を強いられた、ユン・チアンが見た20世紀の山河と同様に、青々としたことでしょう。

 太古の商の時代に生まれた文字は文化を生み出す源流となり「経」となって、年月を追うごとに中原から江南やチベット、そして敦煌や日本へと伝播していきます。

 長い歴史の中で中国大陸を舞台として疾走した英雄たち。英雄を目指して夢破れた武将たち。そんな彼らを支えた多くの家臣や謀略家たち。そして名もなき兵士たちも今は全てが消え去り、広大な大地の下で仲良く眠っています。

 

 悠久の歴史を遡って見てきましたが、過去と現在、どこかで時代が繋がっている印象を抱きました。そんな漠然とした、それでいて重量感のある思いを受けとめるには、この漢詩が相応しいと感じます。

 ここに掲載して、本稿の結びとさせていただきます。

 

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