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18 孫文(「青山一髪」改題) 陳 舜臣(2003)

【あらすじ】

 清国の南都海岸沿い、広東省の貧しい農家に生まれた孫文は、旧辟に囚われない自由人として育った。そのため地元では問題児扱いされ、兄がいるハワイに移り教育を受けることでキリスト教などの西洋思想に触れる。掃国後は香港でイギリス流の医学を学ぶことで、旧辟に固まったように見える清の国体に対する不満が沸き上がっていく。

 

 清仏戦争、そして日清戦争で清国が列強から守る術もなく趺欄されていく姿を見て、現状打破が必要だと痛感し、革命を志す。中国を興す意味で「興中会」と名付けた政治結社を立ち上げて武装蜂起を企てるも、密告で清国政府からお尋ね者の身となり、日本に亡命した。日本では侠客として名高い宮崎滔天頭山満犬養毅などとの交遊を通じて革命の支援を求める。

 

   孫文ウィキペディア

 

 清国内で立憲君主制への移行を目指す進士(科挙に合格した官僚)らが、光緒帝を担いで変法と呼ばれる政治改革を画策するも、わずか百日で西太后袁世凱ら保守派によって弾圧を受け、康有為・梁啓超らは日本に亡命する。日本での清国改革派は孫文と変法派(のち保皇派と改名)を結び付けて勢力の拡大を目論むも、変法派は難関の科挙に合格したプライドもあり、あくまで清国内での改革を目論む。そのため孫文の目指す「レポリューション(市民革命)」と交わることはなかった。

 

 1899年に起きた義和団の乱に合わせて再度挙兵するも失敗に終わり、再び国外に逃亡する。孫文は貸金集めのために今回はアメリカヘ、そしてロンドンへと渡る。ロンドンでは清国公使館に拘留されるも、イギリス公使の支援を受けて解放されて、その時の経験をまとめて「倫敷被難記」を発表することで、世界的に革命家として名を広めることとなった。西洋の政治体制や自由思想を学ぶため熱心に大英図書館に通い、そこで医者でもある孫文は日本の細菌学者でもある南方熊楠と出会い、意気投合する。

 

 1905年に日露戦争で有色人種が白人に勝利したことで、孫文は清国の外から世界的な潮流の変化を肌で感じ、改めて武力革命を成就するために世界各地を飛び回った。1911年10月10日に革命軍が武昌で蜂起すると、その勢いは瞭原の火のように広がり、辛亥革命として実を結ぶ。当時アメリカにいた孫文は急いでヰ国に戻り、翌l9l2年1月1日、孫文を臨時大総統とする中華民国が南京に成立した。

 

 

【感想】

 浅田次郎蒼穹の昴」シリーズでは、第1の勢力である中原の清から派生した軍閥、第2の勢カとして満州馬賊張作霖から日本の関東軍に移る過程は詳しいが、第3の勢力の、南方から勢力を伸ばした中国国民党の記載は少ない。その空白を埋めるためにも清国を滅亡に導いた孫文の作品を取り上げたが、本作品は辛亥革命の成立で筆を止めている。しかし1人の若者が国体を変える夢を持って、徒手空拳の立場から大きなうねりを生み出して、ついに260年余り続いた清国を滅亡に追い込む姿は見事というほかない。この辺りは、明治維新でいう坂本龍馬の役割か。

 

 

 *段祺瑞。袁世凱の後継者として軍閥を率いて孫文と対立しました(ウィキペディア

 

 そしてハワイで西洋思想に接L、医者の学問を修めることで儒教とは異なる「科学的な目」も養うことになり、それまでの中国における易姓革命とは一線を画す「市民革命」を目指す素地となった。そのために革命成就後は国会議員選挙を行い、若いが西洋の自由主義思想に精通する宋教仁を指導者にして、市民革命を更に発展させようとする。医者の目から見た改革は、同じく明治維新における適塾出身者の大村益次郎福沢諭吉、そして「大風呂敷」後藤新平らを思い浮かべる。

 本作品で知ったが、孫文は戦場で戦う場面は少ない。その代わり何度企てが失敗しても決してめげることなく国外に脱出して、後には世界を駆けずり回って資金集めを行うスケールの大きさも見せる。そのエネルギーたるや、戦場での兵士に勝るとも劣らない「熱さ」が伝わってくる。

 しかし坂本龍馬並みの度量を見せて人を受け入れる孫文は、たびたび失意にも襲われる。軍事力を持つ袁世凱に対して大総統の座を譲るも、衰世凱の野望は皇帝の座だった。孫文が後継を託した宋教仁を毒殺し、選挙で選ばれた議員たちを弾圧して、1915年にはついに共和制を廃止して自ら皇帝に即位する。目指した政体をことごとく破壊された孫文は、袁世凱打倒を目指し第二革命を、そして間もなく袁世凱が亡くなったあとを引き継いだ段祺瑞を打倒する第三革命を展開する。

 軍閥袁世凱亡きあとは分裂するが、孫文率いる中国国民党も内部紛争が起きて、再度日本に亡命する事態にまで追い込まれる。そんな中1915年に日本が対華21ケ条要求を要求し、1919年のベルサイユ講和会議によって山東省が日本に譲渡されたのを受けて、中国全土で五・四運動と呼ばれる抗日運動が盛り上がった。この運動は1917年に起きたロシア革命と結びつき、中国の若者に共産主義思想が浸透していくことになる。    

 孫文も方針を「連ソ容共、労農扶助」に転換、国民党と共産党が手を携えて日本に対抗していく「国共合作」に至った。しかし既に孫文は病魔に冒されつつあり、1925年 「革命なほ未だ成功するに至らず」の言葉を残してこの世を去る。なお原題の「青山一髪」は、 11世紀を生きた北宋の政治家、蘇東坡の漢詩「髪ひとすじのように青い山、それこそ夢に見た中原」から来ている。

 

  蒋介石ウィキペディア

 

 孫文が亡くなって3年後の1928年、満州某重大事件が起きて張作霖が爆死し、満州は日本軍の手に落ちる。同年孫文の後国民党の実権を掌握した軍人の蒋介石は、反共主義を掲げ単独で北伐を開始し、清国から続いた軍閥の勢力を駆逐して、孫文が念願だった中原の支配を達成する。しかしその後国民党政府の内部は腐敗していき、第二次大戦後日本軍が退去した後は共産党が支配を強め、ついに国民党は台湾へ逃れるところまで追い込まれた。

 

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