
*のちに首相となる外相のパーマストン子爵は、清国に対して強引な外交政策を繰り広げました(ウィキペディア)
【あらすじ】
イギリス艦隊は紛争の中心地で林則徐が兵を集めていた広州ではなく、防備が手薄な北方の上海付近の舟山列島を攻略した後、北京に近い天津沖へ入る。天津に軍艦が現われたことにより、「弛禁派」の穆彰阿(ムジャンガ)は煙たい林則徐を遠ざけるよう帝に讒言して、代わりに琦善が派遣される。イギリス側はチャールズ・エリオット大佐が主導権と取り戻し、琦善と川鼻条約を締結する。
世界は清が唯一の存在と考えていた道光帝は、川鼻条約の屈辱的な内容に条約の締結を拒否した。一方イギリスではジョージ・エリオット少将がイギリス本国での工作によって主導権を奪還して、強硬手段を取る方針に転換する。軍事行動を再開したイギリス艦隊は、圧倒的な武器で廈門、舟山列島、寧波など揚子江以南の沿岸地域を次々と制圧していった。対して清の軍備はおよそ150年前のシロモノ。
イギリスは陸戦でも、金に困った現地の人を使い「人間の盾」としたため、清国人同士が戦う凄惨な戦場と化していく。清国の兵は陸戦でも圧倒的な火力を誇るイギリス軍に敗れ、軍人の多くは逃げ惑う。
残された住民たちは次々とイギリス兵に蹂躙され、暴行され、虐殺されていく。時に墓も暴いて金品を強奪しようとして、先祖を篤く敬う清国人を激高させる。その中で西玲とその弟も巻き込まれてしまった。そんな地獄のような惨状を、日本人の石田時之助は通訳として目の当たりにする。それによってあれほど嫌っていた母国日本に帰国する決意をさせた。
*穆彰阿(ウィキペディア)
皇帝の前で取り繕っていた実力者の穆彰阿も、ごまかしがきかない戦況となり、ついに皇帝に和解以外に道はなしと献策する。対して熱血漢の王鼎は穆彰阿に、なぜ林則徐を左遷したのかと問い詰め、帝の面前で「貴殿は秦檜ぞ!」と、英雄岳飛を死罪にして、宋国を金に売ったとされる故事を引き合いに出して罵り、その夜命を絶った。
左遷を受けて地方で閉塞していた林則徐は、清国の未来を民心と民力に託した。若くして聡明で人を引き付ける力があり、「山中の民」の首領でもある王挙志は、林に頼まれて抵抗軍に加わる。そして連維材は混乱の中、新たな商売の枠組みを捉えようとしていた。長男統文を台湾に置き、父の手回しによって拘留させてアヘンを断ち切り、その後人格が変わった次男承文を香港に置いた。そして父に似て商売の見どころがあると思われた四男の理文は上海に。拠点に分散させて、交易のネットワークを作りあげていく。
1842年。新たな時代に希望を失わない中、林則徐、王挙志、そして連維材の3人が、林の閉塞先で酒を酌み交わしていた。同じ頃、道光帝は悲痛な面持ちで、巨額の賠償金と香港割譲などを盛り込んだ南京条約に批准する。
*阿片戦争関係図
【感想】
イギリスで後に首相となる外相のパーマストン子爵は、ユニオンジャックを世界に羽ばたかせようと、強引な外交を取り組んでいた。その尖兵は貿易で、東インド会社の後はジャーデン・マディソン商会やメイズ商会などを派遣し、その後見として若く冒険心に溢れる海軍軍人を地域の総督に配置していく。
産業革命をなし得たイギリスの国力の実情を理解していない清は、その後イギリスにいいようにあしらわれていく。イギリスが清から奪った大砲の製造年が1601年と書いてあるのは、後に日本がペリー来航に対して、神社の鐘を大砲に見せかけた事例と五十歩百歩か。そして外交交渉でも、アングロサクソン風の考え(ほぼ「孫子の兵法」)で、手強い林則徐を失脚させ、組みやすいと見た琦善を持ち上げつつも、自らの要求は決して崩さない。
武力、外交とも圧倒的な差を埋めることができない清国は、陳舜臣が「自殺的抵抗」と書き記した手段しか残されなかった。中国に源流のある作者陳舜臣(神戸出身だが籍は一時台湾に移した)の筆はここから哀切が増して、清国に訪れた悲劇を、一般住民、軍人、政治家などから点描していく。
「弛禁派」の穆彰阿は皇帝に和平なくば自らの命も危ういことを悟らせ、ついに屈服を決意させる。「朕、豈沿海の生霊を保全し・・・・」と太平洋戦争における終戦の勅諭のような文を書いた道光帝。そしてこの清国と同じ運命が、未来の日本を待ち受ける。
阿片戦争の後、列強は日本に開国を求める。幕閣はその要求に屈したが、当時の知識人層は阿片戦争の意味を正確に認識し、薩摩・長州を中心に「武士道」を見せつけて租借地割譲などは回避した。そしてジャーデン・マディソン商会の代理店となったグラバー商会が「武器商人」として薩長側と手を結んで、維新の陰で暗躍していく(その後グラバーは破産して、三菱の顧問となる)。
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阿片戦争が終結して9年後に、戦争後の混乱で貧窮した民を糾合して清に反攻する太平天国の乱が勃発する。広東出身の洪秀全が起こした叛乱は中国南部を一時支配し、20年に亘り続いた。その中で筆頭の軍機大臣となった穆彰阿は、鎮圧に失敗して免職されている。陳舜臣はおよそ15年後に「太平天国」として、こちらも長大な物語として上梓した。その中には連維材の子供たち、そして西玲も登場する。
連維材は子供たちを要衝に派遣して商業の拠点としたか、これは初代ロスチャイルドが5人の子をロンドン、パリ、フランクフルト、ウィーン、ナポリに分散させたことと重なる。
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