
*三代皇帝フーリン(順治帝)の摂政として実権を握ったドルゴン(ウィキペディア)
【あらすじ】
後金国の二代目皇帝ホンタイジは文武において父ヌルハチの衣鉢を継ぐ人物だった。一方明側は、毛文龍に対し私欲を貪るとして弾劾した袁崇煥が兵を率い、騎馬隊が苦手とする城や鉄砲、大砲に頼って必死に守ることで、徐々に形勢を回復していく。手を焼いたホンタイジは、名将・袁崇煥に対してあらぬ噂を流す。
だれも信じない噂に1人食いついた人物がいた。明の17代崇禎帝(穀宗)は若く果断だが、狭量で猜疑心が強かった。崇禎帝は真偽を確かめず忠臣・袁崇煥を死罪としたため、明の運命はころげるように落ちていく。「北虜南倭」によって軍備費がかさみ重税を強いる中に飢饉が重なり、一揆が広がる。
袁崇煥が亡くなって局面を打開したホンタイジは山海関までの領地を占領し、国名を清として正式に皇帝に即位する。しかし間もなくホンタイジは急逝してしまい、クリルタイ(民族の最高会議)で、野心に燃えるホンタイジの弟ドルゴンは後見役(摂政)に収まり、6歳のフーリンが即位する。
ドルゴンは情報を欲した。桂庄助には共に大陸に渡った福良弥左衛門がいる、華南の蘇州への偵察を命じられる。以前再会した福良は、日本が鎖国したため入らない貴重な情報を携えていた。福良は娼宿の使いとして働き、蘇州一番の美妓と言われた陳円円を北京に連れて行くために不在であったが、蘇州は人口が100万人を超えて繁栄を謳歌し、明国が倒れる様子は微塵も感じられなかった。
庄助が瀋陽に戻る頃、農民の一揆を主導していた李自成は流浪のまま皇帝に即位して「順」を建国し、食料を求めて北京へと向かっていた。北京を守る明の最大最強の軍勢は、清の侵入を防ぐために山海関を守っていたため空白地帯。その軍勢の将は、美妓の陳円円に高額をはたいて愛妾にした呉三桂。
*女真族の侵掠に耐えるも死罪となった袁崇煥(ウィキペディア)
李自成の軍勢によって紫禁城が包囲されると、崇禎帝は家族と共に命を断ち、ここに明王朝は滅亡した。北京を占領した李自成は、呉三桂にその父を人質として恭順するように求める。呉三桂にとっては李自成に代わり皇帝への道も開かれる運命の岐路。しかし李自成の軍勢が陳円円を掠奪して部下に下げ渡したことを知ると、呉三桂はドルゴンを利用して李自成を討伐する判断を下した。
しかし誘いを受けたドルゴンは役者が違った。騎馬隊では決して越えられなかった万里の長城の山海関を開門させて中国本土に入ったドルゴンは、最初の対面から威を持って呉三桂を従属させて、漢人の軍隊を全面に出して北京に侵入する。李自成の軍勢を駆逐したドルゴンは、前々日に李自成が登極の式典を挙げた後に逃亡した紫禁城に入り、不在のフーリンに代わり玉座に座った。
北京へ従軍していた庄助は、混乱の中に福良弥左兵衛の姿を見る。福良は漢人となって道士として中国に残ると言い残して去った。妻アビアは両親が兄で偉大な初代皇帝ヌルハチに殺されたこともあり、清国王族の姓「愛親覚羅(アイシンギョロ)」を疎ましく感じ、鎖国となった日本に「戻る」ことを希望する。庄助は大陸に渡った時からついて回った「日本差官」という身分を返上した上で、中国人の亡命者として妻と子とともに長崎の地を踏む。
【感想】
極東アジアを舞台に行われた明清戦争。サルフの戦いでは後金が絶対的に不利な陣容の中、ヌルハチは騎馬軍団を軽快に活動させて、弱いと見た朝鮮の援軍部隊を殲滅する。その戦法は三方ケ原の戦いにおける武田信玄の戦術。
鉄砲や大砲を使う明に対して、後金から清と変えた女真族の国は、「ニル」と呼ばれる最小軍団を軽騎兵と重騎兵を使い分けて戦う。そして中隊、大隊や「八旗」など清の騎馬隊の説明をしながら、旅順、瀋陽、鉄嶺などの地名も交えていき、傑作「坂の上の雲」と響き合う。

*傀儡とされた三代皇帝の順治帝(フーリン)。ドルゴンの死後「死者に鞭打ち」し、一派を追放する復讐を行いました。
明清戦争は騎兵部隊が近代兵器に頼らないで勝利することができた最後の時代、そして主人公の庄助とアビアを置いたのは、こんな「十七世紀の歴史が裂けてゆく時期」。万里の長城の東端にある山海関を起点として、中国大陸に息づく民族が、国家が、そして国土がみるみるうちに「裂けていく」。
この後清国は300年に亘り続くが、大草原の中で駆け抜けた「疾風」はこの時代で終わりを告げる。女真族が建国した「清」は、過去の中国王朝と同じように徐々にぶ厚い「衣」に纏われ、19世紀になると産業革命を経たヨーロッパ諸国による近代兵器を擁した帝国主義に呑み込まれていく。
20世紀に入り、日中戦争において司馬遼太郎こと福田定一は、かつて女真族が疾風していた満州の地を踏む。圧倒的に装備の劣る戦車に乗り、絶望を抱えて敵と対峙する運命を呪いながら。日本はなぜこんな馬鹿げた戦争をしてしまったのかという疑問から発した「23歳の自分への手紙」と称する小説群。その集大成となるはずだった、満州を舞台とするノモンハン事件を題材とする小説は、ついに未完のまま「匙を投げた」。
司馬遼太郎は大阪外国語学校(現大阪大学外国語学部)蒙古語部に入り、幼い時から草原を疾風する馬賊を夢見ていたという。そう考えると私が初読の時に疑問に思った、この小説に日本人を登場させた理由を深読みしたくなる。庄助は騎馬軍団の女真族による中華統一を見届けると、中国での日本差官という役職も、日本での武士の身分も排し、中国からの1人の亡命者として日本に戻る。それは満州において絶望と対峙した福田定一が陸軍軍人という衣を脱いで、残されたタネ、すなわち作家・司馬遼太郎として日本に戻ったことを意味しているのではないか。
「韃靼疾風録」は、司馬遼太郎の作家活動として、当然の帰結だったのだろう。
本作品が発刊された翌年の1988年。人間の「素」がぶつかり合う古代中国を舞台とした、宮城谷昌光の「王家の風日」がわずか500部の部数で発刊される。それを司馬遼太郎が発掘し激賞したことで、宮城谷は作家としての地位を確立することができた。
司馬はその後も宮城谷の作品に触れ「仕事を離れてじっくりと語り合う」ことを懇願した。周囲は司馬に、対談ならばすぐにセッティングすると勧め、宮城谷も「司馬さんと会うならばどこへでも行く」と意向を伝えていた。しかし司馬は共に断り、1996年1月に「濃尾参州記」の取材に合わせて、宮城谷昌光の住居に近い名古屋に自ら赴く形をとり、仕事抜きで長い時間をかけて懇談した。
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その1ヶ月後、司馬遼太郎は宮城谷昌光に「何かを託した」ようなタイミングで、人生の幕を閉じた。
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