以下の内容はhttps://nmukkun.hatenablog.com/entry/2025/05/27/070200より取得しました。


12 永楽帝  伴野 朗(1999)

   Amazonより

【あらすじ】

 明を建国した朱元璋太祖:洪武帝の四男に生まれた朱棣(てい)は、利発でかつ果断であり、自らが皇帝の座に相応しいと信じていた。朱棣は権勢欲がある僧侶の道衍(どうえん)を謀臣に、イスラム系の三宝を「影」の実行部隊として皇位争奪の陰謀を巡らした。まずは元の勢力が残る北方を守る燕王として何度か北伐を行い、ことごとく勝利を収めて、父太祖の信頼を得ることに注カする。

 

 長兄の皇太子が太祖より先に死去すると、太祖は後継を長兄の子と定め、太祖の死後建文帝として即位する。まだ子供の帝は側近の言葉に従い、各地に封じた公子の取り潰しを指示する。道衍の策で朱棣は狂人を演じて時間稼ぎをする一方、馬三宝を首都南京に派遣して、不満な宦官を糾合して反乱の準備をする。朱棣は自らの軍を、君側の奸を討ち国難を靖んじる「靖難軍」と呼び、靖難の変が始まる。

 

 軍略に秀でる朱棣ら燕軍だが、数を頼む官軍に苦戦が続き、3度目の出兵でついに首都南京を制圧する。王宮が火に包まれる中、建文帝は祖父太祖から教わった秘密の通路を使って脱出した。

 

 朱棣は反対精力は親類縁者も含めて刑死し、全国から尊敬を集める儒者方孝儒の取り込を図るが、方孝儒は「燕賊、位を奪う」と反抗を貫いたため、目の前で一族を皆殺しにされた上に、自らも礫の刑を受けた。

 

  永楽帝ウィキペディア

 

 即位して年号から永楽帝と呼ばれた朱棣は、「甥殺し」「帝位剥奪」の汚名を払拭しようと、王権の強化を図る。首都を南京から自らの本拠である北京に移し、紫禁城を建立すると共に、「永楽大典」などの編纂を国家事業として取組み、帝位剥奪の議論を封じようとした。

 

 財政難にも関わらず自らの威光を広げるために、対外進出を積極的に行った。西方のティムール帝国と友好を結ぶ一方、南方のチベットや北方のモンゴルに対しては、時に手痛い敗北を喫しながらも、断固たる姿勢で攻略した。日本からは足利義満朝貢をうけて勘会貿易を始め、南海へは馬三宝から名を改めた鄭和に命じ、7回に渡り大艦隊を組織して明国の勢威を見せつけた。

 

 鄭和永楽帝からの密命である建文帝の行方を捜し、ようやくメッカで地元の女性と結婚し、ささやかな店を営んでいる姿を見つけた。その姿を見て、鄭和はその小さな幸福を奪う意味を見出せず、永楽帝には既に亡くなったとの報告をする。

 

 しかし永楽帝の帝位纂奪とその後の粛清は、多くの敵も産んだ。礫となった方季儒の愛妾艶艶との間に、絶世の美女江施が生まれていた。幼くして両親を始め知縁の全てを失った江施は、「離魂再生の法」を習得している道士狄翼に近づき、永楽帝暗殺を企てる。狄翼は永楽帝に近い愛妾に乗り移り暗殺を試みるが、その時永楽帝は「不能」の病に陥っていた。

*作者伴野朗のデビューは江戸川乱歩賞北京原人の頭蓋骨紛失を巡って、戦前の北京を舞台に物語は進みます。ミステリーと中国史の融合で、自称「陳舜臣の押しかけ弟子」。



 

 

【感想】

 小作農出身ながら前漢の高祖劉邦を手本として、モンゴル族から中原を奪い返した朱元璋は、皇帝即位後はそれこそ劉邦のように、功臣の「粛清」を大規模に行った。「我が子房(張良)」と呼んだ劉基まで死を命じた朱元璋。その理由を「皇帝の心底を覗き見たこと」と語らせるのは余りに凄惨。

 そして本作品は、日本では「永楽通宝」(但し明国では流通していない) で名が通っている永楽帝こと朱棣が、皇位を奪取する過程を描いている。英雄朱元璋の能力を色濃く継いだを思われるが、幼年期は明建国を支えた賢夫人の馬皇后が実は実母ではないと劣等感を抱かせ、即位後は「甥殺し」として蔑まれるごとを払拭するため、戦いにそして権力強化にと駆り立てていく。そのため無理を重ね、父に劣らぬ粛清を繰り広げた。

 謀臣の道衍(のちに姚広孝:えんこうこう)は、永楽帝が即位して立身出世を果たした後に故郷に凱旋するが、「甥殺し」の汚名のため、みな道衍と顔を合わせることを拒み、実姉さえ痛烈に面罵したという。永楽帝はこんなはずではなかったと、ホゾをかんだことだろう。

 永楽帝のオ能は明らかだったので、朱元璋が素直に後継者に任命していたら「甥殺し」の汚名を着ることなく、流血を避け「穏やかに」治世を行ったと想像される。しかしそれでも、気宇壮大な野心は抑えられなかったかもしれない。永楽帝が行った北京への遷都は現代まで残り、周辺諸国には飴と鞭を使って臣従を求めて、明王朝の最大版図を確保した永楽帝。そして65歳の死の間際まで戦場に立った皇帝である。

 

 幸田露伴が大正8年上梓した「運命」は、この2人の皇帝を描いた。心やさしいが気弱な22歳の皇帝が、叔父の永楽帝と「靖難の役」で争う。建文帝は潜伏し僧となり、雲南の地などを何十年と流浪しながらも平和な一生を送ったのに対し、永楽帝は長い在位期間中に安穏の日は無く、遠征の最中に病により崩じた。

 作者伴野朗は建文帝をメッカへと逃がし、同じく平穏な生活を迎えている様子を描いている。作者が本作品の前に描いた「大航海」は、鄭和が2万を超える62隻の大船団が東アフリカまで到達する航海を描いているが、その動機を「永楽帝による建文帝捜索」とした。

 皇帝として「不能」となり、内通した後宮の愛妾が罰せられる際、「あんたがちゃんとしていたら、こんなことにはならなかった」と痛切な面罵を受けた永楽帝は、最後まで「甥殺し」の汚名に包まれた人生を送ることになった。

 

鄭和の航海図。コロンブスやマゼランより90年先行した冒険を描いた「大航海」は読み応え充分。そして鄭和の冒険は習近平の「一帯一路」政策で引用されています。

 

 よろしければ、一押しを m(_ _)m

 




以上の内容はhttps://nmukkun.hatenablog.com/entry/2025/05/27/070200より取得しました。
このページはhttp://font.textar.tv/のウェブフォントを使用してます

不具合報告/要望等はこちらへお願いします。
モバイルやる夫Viewer Ver0.14