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6 宋の太祖 趙匡胤 小前 亮(2006) 

【あらすじ】

   黄巣の乱によって唐の僖宗が長安から脱出した後、50年余りの間に5つの王朝が興亡を重ねた「五代十国」の時代。その1つ、後漢で下級将校として仕えた父趙弘殷の子趙匡胤(ちょうきょういん)は、学問はからきしダメで堪え性もないが、周囲を引き付ける人望を有していた。父は叱りながらも期待をかけ、趙匡胤が無実の罪を受けると、黙って代わりに縄につく。学問に優れた弟の趙匡義は、父の兄への期待を感じ、羨望と憧れの気持ちを兄に抱いていた。

 

 親子とも牢から解放され、後漢の有力家臣である郭威の軍に身を投じると、趙匡胤は頭角を現わす。後漢の二代目皇帝の劉承祐は酷薄で、有力家臣たちを次々と誅殺する。出征中の郭威の一族が皆殺しにされると、趙匡胤は郭威に代わって叛旗を翻すことを宣言し、軍勢を一機にまとめ上げた。

 

 反乱軍は皇帝の劉承祐をたちまち包囲して自害に追い込むと、郭威は皇帝として即位して後周を建国した。郭威は妻の甥に当たる柴栄を養子に迎えたが、柴栄も有能な指揮官として郭威の期待に応え、建国間もない後周を支えた。しかし郭威は即位後3年で崩御し、世宗として皇位を継いだ柴栄も5年で崩御する。その間、趙匡胤は戦場での活躍と魅力を以て、軍で筆頭の地位に立っていた。

 

 わずか7歳の恭帝が即位すると、周囲は幼帝につけ込んで後周に攻め込んでくる。不安を抱く軍隊は、趙匡胤が皇帝に即位することを求めた。戸惑う趙匡胤は悩んだ末に、自分の命令に服従すること、恭帝ら周の王族たちに危害を加えないこと、そして決して侵掠しないことを条件として求めに応じ、恭帝から譲位され、建国して国号をと改めた。

 

  趙匡胤ウィキペディア

 

 趙匡胤は柴栄が行った治世を踏襲し、無理のない政策を実行した。特権が認められていた仏教から税の徴収を行う一方、民への税は低く抑えた。また辺境の侵入を守るために軍隊を擁していた節度使の力を弱めて、中央の権力を強化した。軍人出身にも関わらず無理押しをせず、科挙を改善して実質的に機能させて、文治主義を確立する。

 

 趙匡胤は太祖として16年在位して、49歳で崩御する。次代は弟の趙光義兄が即位後、「匡」の字を遠慮して改名)が引き継いで更に政道を安定させて、多くが2代で滅亡した五代の時代から終止符を打った。

*この(北)宋の時代、趙匡胤が改革した科挙を落第した男が、西域で辿った数奇な運命を描く傑作です。

 

 

 

【感想】

 大酒飲みで学問は苦手。英邁とはとても言えないが、戦場では命知らずで皆の先頭に立ち、人心を引きつける趙匡胤前漢劉邦後漢劉秀、そして三国志劉備のような魅力を備えた人物で、わずか50年で5代も王朝が交代する乱世に現れると、あれよあれよという間に皇帝に登り詰めた。

 そんな乱世を象徴する人物として、趙匡胤と接点はないが馮道(ふうとう)という宰相が登場する。「五朝八姓十一君」、一人で5つの王朝、8つの皇統、11の君主を続けて仕えた稀有の存在。日本で言えば、何代もの総理に仕える事務方の内閣官房副長官と言ったところか。

 趙匡胤が残した「石刻遺訓」は、趙匡胤人間性を物語っている。趙匡胤が石に刻んで子孫に伝えた遺言で、代々の皇帝が即位する時に拝み見ることが決まりとなったが、宰相でも見ることができなかった。後に金国の侵略によって明るみになったその存在は、以下の2項目。

 1 趙匡胤皇位を譲った柴氏一族を、子々孫々にわたって面倒を見ること。 

 2 言論を理由に士大夫 (官僚・知識人)を殺してはならない。

 皇位を譲り渡した柴氏の子孫は、宋の滅亡まで仕えた。政争で失脚した官僚は処刑されず、場合によっては復帰もしている。その「優しさ」のため文化は花開いたが、一方で武力は衰え、後にに攻め入られて南宋への遷都を余儀なくされた。国が難局を迎えると「水滸伝」のように侠客が出現する。 そして南宋も含めて350年15代に亘る間、皇帝に暴君は1人も現われなかった。

 

 「千載不決の議」という言葉がある。「千年を経ても結論が出ない議論」という意味だが、これは北宋の太祖・趙匡胤の死から弟の太宗・趙光義による帝位継承をめぐる、一連の疑惑を指す。弟の太宗が即位すると、太祖の子供らを死に追い込み、皇統は弟である自身の子に受け継がれた。そもそも太祖の死の場面も、側にいたのは太宗のみ。

 本作品では、趙匡胤を描く物語の各章最後の1~2頁を使って、弟・趙光義の心の内を語らせている。最初は自分にはない武力と人望を持つ兄への憧景の念が、兄が武将として出世し、後継者に擬せられ、皇帝即位まで成長すると、それを支える自らの立場への複雑な心境に変わり、最後は自分こそ皇帝に相応しいと確信する。この心の内をあぶり出す巧みな表現方法で、歴史的な謎に1つの回答を示した。

 弟の太宗・趙光義に対して疑惑は拭い去れないが、趙匡胤が残した「石刻遺訓」を継承し、五代時代にはなかった「優秀な2代目皇帝」が混迷した時代を払拭させた。兄の趙匡胤も弟の能力を見極めて、敢えて皇太子を定めなかったかもしれない。また結果論だが、後に皇統が全て金に連れ去られて国が南遷した際、残された太祖の子孫が皇位を継承した。

 

  *趙光義(ウィキペディア

 

 この兄弟を見ると、天智天皇天武天皇の兄弟を思い浮かべる。大化の改新を成し遂げて独裁者と化した天智天皇は、白村江の戦いで判断を誤り、超大国の唐を敵に回してしまう。その外交に不満を持つ人々が頼みとした弟の天武天皇は、一時隠棲して時機を待ち、兄が崩御すると子の大友皇子壬申の乱で殺害し、唐との外交関係を立て直した。更に、天武系の皇統は後に途絶えたが、平安の世に天智天皇の血統が復活する。

 不思議な兄弟の関係。「千載不法の議」とは「疑惑は残るが、まっとうな治世を行なったのならば、掘り下げるのは野暮」と言っているように聞こえる。

 

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