【あらすじ】
李世民は母方を姉妹として、隋の煬帝と従兄にあたる李淵の次男として生まれた。ある書生がこの子を見て「世と民を救う」顔だと言い、世民と名づけられる。世民は幼少の時から「陳(ひね)た子」即ち大人びた子として育った。父李淵の下で軍隊の中で育ち、弓を始め武術は周囲から一目置かれ、兄を敬い我儘な弟には厳しく説諭した。16歳のとき煬帝を救出する功績を上げる。
617年、父李淵の挙兵に李世民は従軍し活躍する。長安を平定すると、翌年唐が建国され父李淵は高祖として即位し、長兄の李建成が皇太子となった。父の高祖は季世民の功績の高さに報いるために官位を押し上げたが、兄で皇太子の建成の心境は穏やかでなくなる。
自分の立場が危ういと感じた建成は、弟の元吉と組んで父高祖に世民の讒言を吹聴して排斥を求める。しかし高祖は、北方の遊牧民族への防御に尽力する世民を庇う。遂に建成は世民に毒を盛るも、世民は事前の備えが効いて軽症で済んだ。この出来事を機に、世民は皇太子らと対決する決意を固める。
出兵に対して、建成は世民でなく弟元吉を将軍に推薦し、軍の力で世民を葬ろうと企む。しかし謀略を見抜いた世民は626年、長安の玄武門で兄建成と弟元吉を弓で殺害した。世民は気力の失せた父に譲位を迫り、世民は遂に太宗として唐の二代目皇帝として即位する。
即位した太宗は、武力だけでなく治世でも能力を発揮する。627年、元号を貞観と改元すると、房玄齢・杜如晦の文官2人を任用して政治体制を刷新し、兄建成の幕下だった魏徴を許して登用し、自らの戒めにもした。華美を排してむやみな賦役を行なわず、国力の回復に努めた。
629年、遊牧民族の突厥(とっけつ)討伐に成功すると、遊牧諸部族が唐の支配下に入り、長安には様々な民族の族長たちが朝貢に訪れ、唐の皇帝は北方民族の首長の地位も獲得した。また645年にはインドより仏経典を持ち帰った玄奘(三蔵法師)と会見して、仏教への支援を行なった。
親戚にもあたる隋の煬帝は、二代目皇帝として父から皇位を奪い、皇太子の兄を廃し弟を殺害するなど、太宗と類似点が多かった。そのことを意識した太宗は、煬帝が失敗した高句麗攻めを成功させようとして百済と高句麗に挟まれた新羅と連携するも、新たな成果は見られなかった。また皇太子と定めた嫡子の承乾は粗暴で帝にそぐわず、廃嫡して可愛げがあるが知恵は乏しいと九男の治を後継者にせざるを得なかった。
優れた武将として頭角を現した世民だが、皇帝になると遊牧民族を従えて封土を広げるだけでなく、文治の面でも人材を登用して政治を行ない、また文化面でも残すなど活躍し、中国史上有数の名君の1人と称えられたが、晩年は禍根を残して世を去ることになる。
【感想】
二卵性双生児の1人として生まれた李世民。弟は世民と違って虚弱で、事故に巻き込まれて早世してしまう。そんなこともあるのか「陳(ひね)た子」として育ち、10代の頃から武将として父李淵の元で活躍していく。
本作品の後半では何度か隋の煬帝との類似点を指摘している。煬帝の娘で世民の側室となった楊妃が、父を煬帝という縁起の悪い名に改名させて唐国の守り神にしようと考えた、とするのは興味深いが果たしてどうか。
唐建国で活躍した武人の李神通が、房玄齢・杜如晦ら文官が重用されるのに嘆息したのは、三河物語を書いた大久保彦左衛門に通じるものがある。また太祖自身は政治の要諦を
1 自分以上の能力のある者を、嫉妬せず上手に使うこと
2 家臣の決定を攻めず、長所を使うこと
3 賢人と不肖を区別して、不肖を憐れんでやること
4 諫大夫の批判を敢えて受けること
5 中華を尊び夷狄を蔑まず、平等に接すること
と述べているが、これらは徳川家康の言動そのもの。前の支配者である煬帝を意識したのも、旧主である織田家に繋がる血筋を奪って、天下を強奪した豊臣秀吉と同じく豊臣家を滅亡させた家康の軌跡と重なる。太宗は父に譲位を迫り兄と弟の命を奪って天下の安寧に導き、中国でも3大名君の1人に数えられる治世を行なった。日本でも源頼朝、足利尊氏など乱世のタネとなる弟の命を奪って政権を確立している。
玄奘(三蔵法師)が語る儒教・道教・仏教の違いも面白い。儒教は役人や農民の日々の行動の規範となる、生活の指針や道徳を示すとし、対して道教は休日の行動として、休むことにより日ごとの行動との違いを示すとしている。そして仏教は生きている者たちを対象とするのに対し、魂の救済を目的にしていると語らせ、空海(弘法大師)が儒教・道教・仏教を比較して論じた「聾瞽指帰」を連想する。
*三蔵法師。現代の日本人は別のイメージが刷り込まれているため、違和感は禁じ得ません(ウィキペディア)
また太宋の皇后にあたる長孫皇后は、生活は質素で華美な衣服を取らず、政治に口を挟まず親類を登用するのを好まなかったという。中国の皇后の中でも1、2を争う賢后と言われた。
清の時代に作られた奇書「隋唐演義」の時代に活躍した隋の煬帝と唐の太宗。家族構成や皇帝に即位するまでのプロセスなど、2人を取り巻く状況は極めて似ている。しかし、方や煬帝は中国史上最大の暴君と言われ、こなた李世民は中国史上を誇る名君の1人と評価された。塚本靑史が続けて描いた2つの作品は、陰と陽で背中合わせになっている。
歯車が1つ狂えば、2人の評価は入れ替わっていたかもしれない。
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