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17 煬帝(ヨウダイ)(2011)

【あらすじ】

 後漢の世が乱れてから400年ほど経った南北朝時代の末期。北周の大司馬へと出世した楊堅は北方の異民族の血を汲む正妻の独孤伽羅(どっこから)との間に子が何人か産まれ、その内の長女、楊麗華宣帝の皇后となり、楊堅の地位は盤石のものとなった。

 

 後に煬帝と呼ばれることになる楊広は、楊堅の次男として生まれる。秀麗で頭脳明晰な楊広は、狂躁な性格の長男の楊勇からいじめられるも、慎み深い性格を周囲に見せ、父から信用されるように振る舞っていた。

 

 楊麗華が嫁いだ宣帝は性格が破綻して、皇后を7人設けるなど酒色遊興にふけり、政治は義父にあたる楊堅に一任する。正妃の楊麗華は良く耐えたが、弟の楊広を男色の相手に仕えさせようとした時は、声を荒げて反対した。宣帝は7歳の静帝に譲位するが、楊堅は家族を守り地位を簒奪するために、宣帝の顔に水を浸した厚紙を覆い、22歳の生涯を終らせた。

 

 政治の実権を握った楊堅静帝から譲位を受け、文帝として即位してを建国すると、周の皇族を数多く斬殺していく。嫡子の楊勇は皇太子となり、次男の楊広は晋王として華南に進軍して南朝の併呑を目指し、589年に陳を滅亡させて中華統一を果たした。一方で華南は北朝にはない華やかさがあり、楊広は仏教を中心とする深い文化、そして美女たちに魅了される。

 

  煬帝ウィキペディア

 

 皇太子となった楊勇は遊興が激しくなり、徐々に両親から疎まれていく。楊広は近習の楊素を通じて両親への讒言を繰り返して、皇太子の座を奪うことに成功する。母の独孤伽羅が亡くなると父文帝に愛妾を勧めて、政務を疎かにさせて次期皇位の座を盤石のものにしようとする。しかし病で倒れた文帝は楊広の企みに気が付き、楊勇を皇太子に復帰させようとした。それに気が付いた楊広は、病床の父の顔に水を浸した厚紙を覆った。楊広の計略は即位という形で実を結ぶ。

 

 即位した楊広は、兄を始め敵対する兄弟たちの命を奪って地位を確立する。それまでの慎み深い態度から豹変して、奢侈を好む生活を送った。国都大興城(長安)の建設を推進し、また100万人の民衆を動員して大運河を建設し、華北と江南を連結する。これを使い食料の流通を抑えることで、国を支配する源泉にした。さらには対外政策として積極的に国外遠征を試みる。

 

 しかし3度実施された高句麗遠征はいずれも失敗に終わり、外征と工事の動員で民衆の疲弊は極まった。この機に楊広の側近で、即位後に疎んじられた楊素の子楊玄感が反乱を起こす。反乱の鎮圧に努める中でも、楊広は現実から逃避して酒色にふけ、都合の悪い話は聞かなくなった。3度目の高句麗出兵で主力軍が留守となる中、業を煮やした側近たちがクーデターを起こす。引き回された上、毒を呑むことも許されず、首を吊されて命を奪われた。

 

 

 

  *隋を建国した父の楊堅ウィキペディア

 

【感想】

煬帝(ヨウダイ)」は後の唐朝によってつけられた追諡で「」は「天に逆らい、民を虐げる」という意味。また日本語で「帝(テイ)」を「ダイ」と敢えて読ませる唯一の皇帝。次男に生れるも遊興にふける兄に対して、品行方正を「演じて」両親に対して策略を巡らし、兄を廃嫡させて自ら皇太子になると、最後は父の命を奪うことで皇位を簒奪したと言われている。

 その策略振りは前漢を簒奪した王莽を連想するが、煬帝は皇帝の子で皇太子となってから皇位に就いたため、正統性は揺るがない。しかし秀麗で聡明な幼少時代に比べて、皇帝に即位するとガラリと変わった。遊興にふける反面、民衆を徴発して過酷な造営事業や外征を続けたために民衆の怨嗟の声が巻き起こり、民衆から離反されて叛乱を勃発させる結果となった。そのため皇帝としては、あまりにも悲惨な最期を遂げる。

 本作品では南北の文化の違いを所々で抑えている。北の匈奴など遊牧民族の文化は煬帝の母の独孤伽羅が象徴しているが、中国では珍しく一夫一婦制を頑なに守る部族出身として悋気が強く、皇帝となった夫の文帝も正妃の死まで夫婦生活を束縛され、その感情が夫だけでなく長男、そして次男の煬帝にも心象風景として影響を及ぼしている。またレピレイト婚という、夫が亡くなった嫁が、その弟などに嫁いで家を守る風習を説明し、同じ姓で結婚するのを避ける漢民族との違いを際立たせている。

 対して南は文化が盛んで洗練されている。美しい女性も多いとされて、文帝もそして煬帝も南方の女性の虜にされる様子を描いている。また後漢の時に伝来した仏教が盛んになり、廃仏毀釈運動などで時の国から弾圧を受けながらも、達磨大師が活躍するなど文化として盛んになり、書家・王羲之などによる文化の熟成も描いている。

 

六朝文化の象徴にして、中国書道の最高傑作とされる王羲之の「蘭亭序」

 

 科挙試験を登用したとされる隋。聖徳太子朝貢したときの「日出ずる処の王子、書を日没する処の王子にいたす」という、外交辞令をわきまえない文書を送ったとされるエピソードも、塚本青史はその後に続く文章の内容が深く、修辞技巧や1つ1つの楷書が美しいとして、倭の「失態」を見事に救っている。

 

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