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12 光武帝(2003)

【あらすじ】

 漢末期。帝が幼少で次々と早世し、飢謹などで民の生活が苦しむ中、宰相の王弄に期待する声が高まる。王莽は漢王朝を纂奪する形で帝に即位し、新たな王朝「」を建国した。

 

 漢の景帝の流れを汲む家系の次男に生まれた劉秀は、家は貧しく、しかし明るく純朴で素直な性格を有していた。頭脳は明晰なため帝都長安への遊学を許されるが、そこで見た光景は、王葬の新しい政策が現実を無視して理想を追い求めるあまり、各所が混乱に見舞われている姿だった。王葬に期待した民衆の声はすぐに罵声に代わり、また匈奴西羌周辺諸国らの反感を買っていた。

 

 同じ頃、海湾軍で酒造業者を営む呂母が、言われなき罪で県令に殺害された息子の仇を撃つために、私財を投じて数千の徒党を集めて反乱を起こした。呂母は県令を殺害した後に亡くなるが、赤眉軍と名乗る勢力を中心に、各地で皇帝王莽に対する反乱が勃発する。

 

 その勢いに乗って西暦22年、武勇に秀でる劉秀の兄の劉縯が挙兵し、劉秀も従うことになった。反乱軍は徐々に収斂されていき、凡庸と思われた劉秀の本家筋にあたる劉玄が無難との評価を得て、更始帝として擁立されることとなった。

 

 この動きを見た皇帝の王莽は更始帝討伐に腰を上げ、まずは (公称) 100万の軍隊で劉秀が拠点としていた昆陽城を攻撃する。劉秀は夜陰に乗じ僅か13騎で昆陽城を脱出すると、包囲軍に反撃を加えて劇的な勝利を収めた。兄の劉縯も宛城を落減させ、劉縯・劉秀兄弟の名声は急速に高まる。しかし更始帝は兄弟に対する嫉妬心を心中に宿し、即位に反対した劉縯を殺害してしまう。

 

 更始帝の軍勢は勢いを増し、洛陽と長安を陥落させ遂には遷都に追い込む。兄の事件に沈黙を守る劉秀を更始帝は煙たがっていたが、河北へ派遣する武将が払底したため、やむ無く劉秀に進軍を命じた。

 

  光武帝ウィキペディア

 

 劉秀は反乱を起こした時から共に闘った部下を率いて、極寒の中で河北へと厳しい行軍を行う。その中で劉秀の人柄が知れ渡ると、地方豪族たちは劉秀の庇護を求めるようになった。勢いを増した劉秀軍は敵の王郎軍を撃破し24年夏には邯鄲を陥落させ、王郎は逃走中に斬死した。劉秀の勢いを恐れた更始帝は、兵を解散させて劉秀を長安に呼び戻そうとした。しかし劉秀はこれを拒否し、自立する道を選択した。その兵は数十万を越える勢カに膨れ上がる。

 

 25年、劉秀は部下から皇帝即位を上奏され、4度目の要請で光武帝として即位を受諾する。対して更始帝赤眉軍との戦いに敗れ、降伏後殺害された。その赤眉軍も略奪を繰り返した末に光武帝の軍勢に屈服し、配下に吸収されていく。

 

 漢王室の再興はなった。しかし赤眉軍の残党2人は自由を求め、楽浪郡の更に海の先に存在するという「」国に新たな活躍の場を求め、舟を漕いでいく。

 

 

【感想】

 王莽のような奸臣が現れることで世が乱れていく様子は、趙高による秦の崩壊と同様の軌跡を辿り、その後の王朝交代劇で繰り返される。しかしすぐに世が収まるかどうかは、1人の英雄が必要になる。これを煎じ詰めると「易姓革命」となるのだろう。

 物語の冒頭、劉秀が青雲の志を持って、勉学のために帝都長安に赴くところから始まる。姉妹と仲が良い田舎の素朴な人間が、旅に出て漢未期の実情を知ることで見聞を広げ、問題意識を抱えながら自分の立ち位置を探していく姿は、司馬遼太郎の傑作「竜馬がゆく」の冒頭部分と重なる。

 そして本作品の前半は、赤眉の乱のきっかけとなった酒造業者の呂母について丁寧に描いている。真面目に働いている人間が、権力者の横暴に巻き込まれていく理不尽さを描くことで、劉秀という、時に平凡に見える人間が、やはり乱世に巻き込まれていく様子に説得力を与えている。

 実直で慎重な性格の劉秀は、最初は勇猛な武将の兄劉縯に従う形で乱世に押し出されるが、先に兄が亡くなることで心ならずも兵を率い、次第に反乱軍の首領となる。この流れは鎌倉時代初期の混乱を治めた「鎌倉殿の13人北条義時と同じ軌跡を描く。

 

   更始帝ウィキペディア

 

 本家筋の劉玄(更始帝)との微妙な関係も興味深い。最初は更始帝に従うが次第に疎まれ、河北へと進軍して勢力を拡大したのをきっかけにして独立を決意する。これは人柄も合わせて、足利尊氏後醍醐天皇から独立する経緯と瓜二つ。

 このように日本史上でも偉人たちの良い所を集めたような人物の劉秀。無名の頃から恋焦がれていた幼馴染(陰麗華)を娶り、皇帝となってからも皇后として大事にした素朴な性格。高祖劉邦と同じように「光武二十八将」と呼ばれる優秀な人物が集まるも、天下が平定したあと「狡兎死して走狗烹らる」ことをせず、功労者を最後まで大切に扱った。

 帝位に就いたあと、6千万人から2千万人まで減少したとされる国力を回復させる対策と して、決して無理はせず、奴卑の解放や租税の軽減、軍士の帰農を進めた。その結果63歳で亡くなるまでの32年に渡る在位期間は、後漢王朝が最も栄える時代となった。なお治世が安定したために民の識字率が高まり、その結果後漢滅亡後を舞台とした「三国志」の物語が広まったという説もある。 

 王朝復興を目指し、そして成功させた中国で唯一の帝ながらも洒脱な性格で知られ、中国史上三大名君 (唐の太宗、清の康煕帝)の1人に数えられ、三国志の英雄曹操が憧れた人物でも知られる。そして光武帝の最晩年、倭からの使者が朝貢した際に「漢委奴国王」の金印を授けたことで、日本史上にも名を残した。

 その故事に敬意を表し、中国と倭の繋がりを感じさせる情景を切り取ることで、物語を結んでいる。

 

  

光武帝が奴国に授けたとされる「漢委奴国王」の金印

 

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