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11 王莽(2000)

【あらすじ】

 伯母の王成君が帝の皇后となり伯父の王鳳が出世するも、王莽の家だけが取り残され、貧しい生活を続けていた。王莽は勉学が好きで、王宮にある図書館の目録整理を命じられた時に、司馬遷の「太史公書」を見つけると4日間夢中になって読みふけった。それを見た儒学者劉向に認められ、学問に励む王莽の評判が高まった。また王鳳に対し熱心に看病を続ける姿から、帝や叔母である皇后の王政君の後ろ盾を得て、急速に出世していく。

 

 王宮での遊泳術にも長けてきた王莽は、飢饉になると炊き出しを行ない、イナゴによる被害が増えると、捕らえた者は分量に応じた値で買い取る布告を出す。貧しい者は免税の特権を与え、流行病に対しては収容所を設けて医薬品を供出する。亡くなった場合は遺族に葬儀代を付与した。幼帝が続く中で叔母の皇后の王政君は、天変地異や動乱には対応できず、王莽はその間思うがままに政治を采配し、自己の人気取りのために、国家財政を湯水のように浪費した

 

 哀帝が崩じると、皇帝の璽綬が手に入ることで、政治の実権を掌握することになる。娘を平帝の皇后に冊立し、自らは「宰衡」という立場になり政治の実権を握る。その中で王宮からの下賜をかたくなに拒む姿勢を世間に広め、罪を犯した自らの子も獄に送り自殺に追い込むことで、民衆の支持を得ることは忘れない。間もなく14歳になった平帝が死去すると、後継に2歳の遠縁の劉嬰を立て、自らが呼称を「仮皇帝」「摂皇帝」と呼ばせて、皇帝の業務を代行することとした。しかし世の中に、王莽を真の皇帝に即位させよとする声は鳴り止まない。

 

 漢の創始者高祖ゆかりの「金匱図」「金策書」から、王莽を真の皇帝になるべき命が見つかる。王莽は天命と感じ、禅譲を受けたとして自ら皇帝に即位し、「」を建国した。

 

   

 *王莽(「莽」の中の「大」は、実際は「犬」です:ウィキペディア

 

 王莽は周の時代を理想とし、劉向の子、劉歆を始めとして儒学者を多く招き入れて、儒学と瑞祥に基づいた政策を実施する。しかしその政策は現実と余りに乖離していた。商売を蔑みながら強引に専売制を強化しては失敗する。華夷思想に見られる周辺諸国への差別的な振る舞いは異民族の離反を引き起こし、その征伐にも失敗して、民衆を混乱に巻き起こした。

 

 王莽を歓呼する声は消え、代わって中農民・盗賊・豪族により、赤眉の乱緑林軍による反乱などが各地で勃発した。劉玄(更始帝)の勢力を倒そうと王莽が送った公称100万の軍勢も、昆陽の戦いで劉玄旗下の劉秀(のちの光武帝)に敗れてしまう。劉歆に知恵を求めるが「政は、今に合わせるよう皇帝が差配するもの」と咎められてしまう。長安城には更始帝の軍勢が入場、王莽はその混乱の中で首を列ねられた。享年68歳。これにより新は一代限りで滅亡した。

 *「王莽」関係図(ウィキペディア

 

 

 

【感想】

 作者があとがきで書いているが、平家物語諸行無常を語る中で、秦の末期に現れた趙高に次いで王莽を例に出し、天下を争奪する奸臣の代表として扱われている。またウィキペディアは、こう記述する。

 西遊記孫悟空が暴れた時期 (山に封じられるまで)を王葬の時代と設定したが、これは暴君・王位纂奪者・偽天子が皇位にある時、天変地異が起こるという伝承を王葬の纂奪と重ねていると見られる

 ちなみに菅直人阪神淡路大震災の時、政権が弱いときは天変地異が起きると指摘するも、自身の政権の時に東日本大震災が起きた。

 

 そんな「奸臣」王莽に対して、作者の塚本青史は恵まれない幼少期から勉学に目覚め、司馬遷が書いた歴史書を読んで、古代に憧れる人物から筆を起こしている。伯父に対して手厚く看病をする孝行な人として、周囲から評判が広まり、やがて認められていく。

 最初はちょっとした出世で満足したのかもしれない。しかし徐々に王権に近づき、そして政治の中心が余りにも知恵もエ夫もないため周囲から頼られ、そして自らが成し遂げようとした。そんな「エアポケット」の中に偶然入り込み権力を掌握して、そして幼少の帝に代わり栄誉も重ねることになると、本作品では描いている。しかし私には、最初から「野望」を持って、猫を被っていたのではないかとの疑問が残る。

 しかし「皇位纂奪」には宿命として困難がつきまとう。易姓革命は「武力」で前王朝を倒すために形が明確になって表れるが、前政権を血統の繋がりがないまま「簒奪」するのは、周囲からの反動が凄まじく、一代限りで終わる宿命になる。趙高平清盛、そして豊臣秀吉足利義満は「天皇家は百代限り」という噂を流して簒奪を正当化しようとしたが、それでも目前で頓挫した。

 

*日本で一番「皇位簒奪」に近づいたのは、この人ですね。

 

 幼帝の哀帝が亡くなった時は王莽による毒殺が疑われた。王莽を世に出すきっかけとなった伯母の王政君は四代の帝に仕えたが、皮肉にも漢王朝の最後を見届ける立場に追い込まれる。王莽の配下が王政君の預かっていた国璽を受け取ろうとする際、王政君は王莽が帝位を纂奪したとして散々に罵倒し、最後には玉璽を投げつけて「お前らは一族悉く滅亡するであろう」と言い放った。

 

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