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【あらすじ】
1 呂后
漢帝国を建国した偉大なる高祖・劉邦の正妻呂后は、劉邦から長く遠ざけられて、同郷の審食其(しんいき)を愛人とする生活が続いていた。しかし劉邦が薨去すると、呂后は徐々に権力を掌握する。子の劉盈(りゅうえい)が恵帝として即位すると、呂后は皇太后の権力を固めるために、高祖の愛妾が生んだ庶子の殺害を企てる。更に愛妾の戚夫人の両手両足、そして目と舌を奪って厠に落として嘲笑する残虐性を見せる。これを知った恵帝は心を病み酒に溺れ、間もなく死去する。
地位を強化すべく呂后は劉邦の庶子を次々と暗殺し、その後釜に呂氏一族を配して外戚政治を執り、自分に反抗的な少帝を殺害して、ねつ造して後少帝を立てる。審食其は呂后のおかげで出世を果たすが、男女の仲では呂后に対して上の立場だった。しかし呂后は全てにおいて自分の思い通りにならないと、我慢できない状態になっていった。
2 朱虚候(劉章)
劉邦の長子劉肥の次男として生まれた劉章は、兄の代理として参内し朱虚侯に封じられ、天真爛漫に呂后に接する。呂后は気に触るも、子供相手に真剣に取り合わない。しかし劉章は高祖に繋がる劉一族を排斥していく呂后に対して不満を貯めていた。
劉章が20歳になったある日、呂后から宴会の司会を命じられた。呂后の酒会は司会がその場を全て仕切る決まりだが、劉章はそれを逆手にとる。宴会の余興で民謡にかこつけて、呂氏一門の専横を皮肉る内容の歌を歌った。また、宴席を勝手に中座しようとした呂氏一族の一人を斬り殺し、呂后に向かって「法に従い、これを処刑いたしました」と報告した。決められた定めによるもので、呂后は叱責することも出来ず、劉章は呂后に不満を持つ者から評判になった。
呂太后が死亡すると、政治を私する呂一族に対して、劉章は兄と協力して兵を挙げ、呂氏一門をことごとく誅殺した。しかし帝位は兄には渡らず、有力な親族がいない劉恒が文帝として即位した。劉章は心中穏やかならぬまま、23歳で「晩年」を迎え、間もなく死を遂げる。
3 准南王(わいなんおう:劉長)
劉邦の末子にあたる劉長。生母の趙姫が劉邦暗殺に関わったとされ、無実を訴えるも劉邦は許さない。審食其に助けを求めたが、審食其は呂后を遠慮して力にならず、趙姫は劉長を生むと自害する。劉邦は反省して呂后に劉長の生育を任せたため、劉邦の死後呂后が劉邦の子を悉く死に追い詰める中でも、生き延びることができた。
劉長は逞しく成長した。呂后が亡くなり、呂氏一族が排除されて文帝が即位すると、文帝の弟という立場から自儘に振る舞うも、文帝は劉長を許した。劉長が長安に入朝した際に、呂后が亡くなってから隠遁していた審食其の元を訪れると、有無を言わさず審食其を鉄鎚で殴り殺し、母の仇を取ったと申し立てて文帝から許しを得る。劉長の狼藉はとまらず、周囲は畏れ憚るようになっていく。文帝は劉長を庇い切れず、遂に配流を決意する。劉長はその刑に恥じ入り、自ら食を断ってその命を終える。
4 周亞夫(しゅうあふ)
呂后の死後に即位した文帝は、穏健な政治と有能な寵臣を使う政道を敷くことで、国力を増していった。しかし劉長など自儘な諸侯に対しても弾圧はせず、遺族たちに相続を許したために、後の叛乱の火種を作ることになる。
周亞夫は劉邦の挙兵に草莽から付き従い、呂后一族排斥の功があった周勃の次男に生まれ、兄が人を殺めたことで家督を継いだ。家名断絶も危惧されたが、父が有能な将軍であったため、当時不穏だった匈奴を征伐する役割を担わされる。周亞夫は匈奴への防衛、そして文帝の中央集権化を目指す動きに反発した呉楚七国の乱で活躍を見せ、丞相に任命される。
文帝、そして次の景帝でも軍事で重用されるも、次第に文官が政道を担う時代となり、周亞夫は疎まれそして遠ざけられる。有能な文官から見ると、武功のある老人は邪魔でしかなかった。間もなく罠に嵌められ、食を断たれて餓死に至る。
*周亞夫(ウィキペディア)
【感想】
中国3大悪女の1人とされる呂后。劉邦は彭城の戦いで項羽に完敗し、呂后が項羽に捕虜にされる。劉邦はその際、子供も馬車から突き落として逃げ、呂后はそこから劉邦への親愛が薄れたとの話もある。しかし劉邦は劉邦で、呂后の生んだ子が自分の子ではないと疑って、呂后と子供に薄情だったとも言われている。そんな呂后だが、劉邦が亡くなると「化けて」しまう。
呂后の残虐行為は枚挙に暇がないが、その後文帝・景帝による(呂后に比べれば)穏当な治世を行なうことで疲弊した国力が回復し、漢帝国の全盛を迎えた。しかしその時は文官の蕒誼(かぎ)や爰央、そして晁錯などが権限を握り、武力で貢献した者たちは次第に遠ざけられる。それにしても、「文景の治」を演出した景帝が、かなりクセが強く描かれている。
*漢初頭の皇統系図
前作「凱歌の後」から続く、漢王国建国からの粛清劇。その中で劉邦が亡くなった後の呂后による混乱から文景の治に至る半世紀を描いた本作品は、鎌倉幕府創成から北条義時による幕府の確立までを連作で描いた、永井路子著「炎環」とも通じている。
「文景の治」によって政道が安定したため、次の武帝は高祖以来防御に専念した匈奴など周辺諸国への攻略も行ない、漢王国の最大版図を築いた。
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