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5 春申君(楚:2010)

【あらすじ】

 後に春申君と呼ばれた黄歇は、で生まれ、幼い時から聡明を謳われていた。楚を攻めようとする秦への使者の太子に従った黄歇は、秦の昭襄王に対し、強国の秦と楚が戦う不利を説いて和平に導いた。和平の証に人質となった黄歇だが、楚の頃襄王けいじょうおう)が病に倒れたと聞くと、完が不在の間に後継が決まることを危惧する。独断で完を密かに楚へ帰国させ、残った黄歇は死を覚悟したが、宰相范雎のとりなしもあり、楚へと帰国することができた。太子完は即位して考烈王となり、黄歓は信頼を受け封土を受け、春申君と名乗ることになる。

 

 楚は屈原の識見が群を抜いていた。屈原は折に触れて秦は信用ならないとし「合従」を説いていたが、剛直な性格は周囲から煙たがられて、王宮から遠ざけられていく。その後秦が楚に次々と侵掠していく様を見て、絶望した屈原岩を抱いて入水自殺する。春申君は屈原に敬意を払っていたために衝撃を受けるが、その頃には春申君の立場は、楚で重要なものになっていった。

 

 楚以外の諸国も揺れ動いていた。では康公が民衆や諫言する臣下を虐殺して国民の心は離反し、斉・魏・楚の連合軍は宋を攻め入ると、あっけなく宋は滅亡した。秦に隣接するは秦に攻められて領土を奪われ、北にある上党郡が孤立したため、上党は趙へ帰属を申し出る。では秦と敵対する行為を危惧する声が多かったが、戦国四君の1人、平原君は「非常な大利です」と受入に賛同し帰属がきまる。しかしこの判断は秦の怒りを買い、秦の白起将軍に攻められ、40万にも及ぶ死者を出す大敗に至る。

 

   *春申君(ウィキペディア

 

 秦軍は更に趙の首都の邯鄲を包囲する。救援を求めるために平原君が楚へ派遣される。従者とした食客の1人はそれまで評判が上がらず平原君は危惧するも、嚢中に入れると錐のように剣先が出ると豪語して、考烈王を前に交渉で活躍し、「嚢中の錐」の故事の由来となった。春申君は平原君の要請に応えて兵を出し、秦は邯鄲の包囲を解いて撤退した。しかし戦国の三君が秦に対抗する合従の鼎となり、楚・趙・魏・韓・燕の連合軍を率いて秦を攻めたが、函谷関で敗北を喫する。以降合従軍は組織されず、秦による諸国併呑が進められていった。

 

 春申君の食客に趙の人の李園がいたが、春申君はその妹を寵愛し、春申君の子を身籠った。李園は楚の考烈王に嗣子がないことを見て、春申君に李園の妹を考烈王に献上すれば、春申君の子が次代の楚王となると吹き込んだ。春申君はこの策に乗り、考烈王に進言してしまう。

 

 考烈王が病死すると、葬儀に向かう春申君は待ち伏せていた李園らに殺害され、城外にその首を捨てられた。そして李園の妹が産んだ子が即位し李園は宰相となるも、後に李一族は滅亡する。

 

*槿山大観が描いた屈原。高名な「楚辞」は、屈原を含めた楚にゆかりのある詩を集めた詩集です(ウィキペディア

 

 

 

【感想】

 戦国四君と呼ばれた内の1人、春申君。強国楚の中で、若い時からこの人こそ「嚢中の錐」としてその能力を見込まれた人物。俊英にして秦との交渉でも一歩も引かない胆力を示し、考烈王を楚に戻す手柄を上げた。孟嘗君平原君について「金を飽かせて人を集めれば、それなりに集りましょうが、所詮は玉石混清。要は玉を見極める目ですわい(「白起」より」)と言わせている。特に平原君に対する見通しの甘さなど辛辣で、無責任呼ばわりをしている。  しかし晩年は食客李園に翻弄されて、その輝きは年とともに色あせていく。

 一度は戦国三君が会して秦と対時して撤退させることに成功し、その中心を担った春申君を「戦国最後の華」との印象を受けたが、本作品を読んでその気持ちも薄れた。合従軍が秦を撤退させたのは、秦の宰相の范雎白起の内紛が利したためであり、その後の函谷関の戦いでは連合軍が大敗してしまう。  

 戦国時代もこの時代になると、晋は家臣の三卿によって韓・魏・趙に分裂したが、その国々もそれぞれが白起の「猛攻」によって衰退する。、そして中山などの小国は滅亡し、は姜氏から田氏へと下剋上が完成したが、楽毅の攻撃によって国の屋台骨が揺らいだ。そして呂不韋による、のちの始皇帝を利用した「奇貨居くべし」による王室の乗っ取りなど、動揺が広がっている。本来は秦を凌駕する実力を持つも、春秋時代の覇王である荘王以降は王に恵まれず、伍子胥屈原などの有益な人物を活かせず凋落していった。

 戦国四君の中でも名を惜しまず義快心が篤いと尊敬された最後の一人の春申君は、強国楚を率いて秦と対時するべき立場にあった。しかし食客の1人の讒言に惑わされ、呂不韋を気取って野望を持つも、その姦計に嵌り命を落としてしまう。

 

  荀子ウィキペディア

 

 高名な評判とは裏腹に、戦国時代の「あだ花」として役割を終え、時代は秦による「覇業」へと移る。しかし春申君は「性悪説」の思想で名高い荀子を保護すると同時に、後に秦を滅ぼす項羽の祖父で、楚再興の種とも言える秦抗戦の名将・項燕を門下に抱えていた。

 

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