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3 裂果 趙襄子伝(晋:2004)

【あらすじ】

 春秋の覇王、晋の文公に仕えることで栄達の道を歩んだ趙家。その後信用を落として一旦没落するも、趙鞅の祖父趙武が家勢を盛り返す。趙鞅は悪名高い魯の陽虎を召し抱えるなど、懐の深さに胆力も持ち合わせて趙家を差配し、晋の国で重きをなしていた。

 

 ある日趙鞅は子供たちを集めて、北にある常山に隠した宝を見つけたもの与える、と言った。子供たちは常山へと行くが、誰も宝を見つけることができない。しかし母が「北狄」出身で皆から蔑まれていた母卹(むじゅつ:無恤趙葭は、常山から見下ろす代(国)を取ることができる、と答えた。間もなく長男の白魯が亡くなると、趙鞅は趙母卹を嫡子の座に据えた。趙母卹は晋の首都晋陽の水路が危険な点を指摘するなど、鋭い頭脳をもっていた。

 

 それまで北狄で育っていた母卹は晋陽に移り、趙鞅の教えを受ける。当時は晋の国で六卿と呼ばれる范氏・知氏・中行氏・趙氏・魏氏・韓氏の一族が国を支配していた。その中で范と中行の力が突出することを畏れた知躒は晋公に讒言して、両氏を追放することに成功した。両氏の領地は名目上晋公の領地となったが、その実は四卿で分割しようとしていた。

 

 その間、楚は呉に攻め込まれて滅亡寸前まで至る。楚への復讐を果たした伍子胥も、勢い盛んな呉王の夫差への諫言を繰り返すことで死を招く。夫差は益々意気盛んとなり、中原に諸公の招集を号令し、趙鞅は敢えて重病の晋王を連れて参加したが、夫差は予定の日程が終ると早々に撤退した。夫差が覇王気取りになっている時に、越の勾践が呉に侵掠した報が入ったのだ。しかし趙母卹はタイミングの良さの裏に、孔子の弟子で交渉の達人、子貢が暗躍していると睨む。

 

*趙母卹(無恤・襄子) 中国文化研究所

 

 趙鞅が亡くなり趙母卹が後を継いだ。服喪の期間に趙母卹は、幼い頃常山から見た代の国をだまし討ちのような形で併呑する。知躒の子の知瑶も代を狙い、趙母卹の兄趙葭を家臣として代に送り込んで工作をしていたが、趙母卹の侵掠により趙葭は裏切り者の立場となり、瀕死の状態で見つかった。また四卿が実権を握っていることに憤った晋公に対し、四卿は武力を整えている報を聞くと、畏れた晋公は逃亡して遂に晋は滅びる

 

 残された四卿の内一番の勢力のある知瑶は、その増長した性格を剥き出しにして、残り三卿に領地の割譲を通告する。1度認めたら要求を繰り返すだろう酷薄な知瑶に対し、趙母卹は遂に兵を挙げる。晋陽で水攻めに会う趙母卹の籠城は3年続き、離反も相次ぐが、希望を捨てない趙母卹は魏氏と韓氏に寝返りを説得して逆転を狙う。

 

 知瑶に危惧を覚えた両氏は趙母卹に同意し、叛旗を翻して知瑶を討ち取ることに成功する。趙母卹はその恨みを、知瑶を煮殺して羹(あつもの)料理として、頭蓋骨を杯として家臣たちに分け与えることで晴らした。

 

 

 

【感想】

 裂果とは果実が熟したりして果実が割れることをいう。「孫子伝」、「斗宿星」で斉の国が下剋上によって変革する過程を紐解いたが、本作品では中原の強国、が「裂果」のようにの3国に分裂する様子を描いた。

 

  *父の趙鞅(中国文化研究所

 

 物語としては宮城谷昌光著「孟夏の太陽」の後半部分に当たるが、同作品では晋国で代々家宰を務めた趙氏という一族に焦点をあてたのに対し、本作品では趙母卹が父を超え、そして晋国を超えていく様子を描いた。父趙鞅が存命中は控えめながらも知恵を見せ、趙鞅が亡くなり後を継ぐとたちまち能力を「裂果」させ、代を併呑し晋公を追放し、そして知氏を滅亡に追いやるなど、立て続けに活躍して「趙」の国を建国する。

 国王となるとそれまでの激しさと変わって、嫡子を譲って貰った亡き長兄の伯魯に報いるために、代を併呑すると伯魯の子を封じたが、早世すると更にその子の趙浣を趙の次期当主とした(但し、兄をだまし討ちにして殺害して王となったお詫び、という説もある)。

 作品の最後に、趙母卹の暗殺を何度も試みた予譲の「正体」が明かされるところで終るが、その前に苦渋を嘗めた相手の頭蓋骨を杯とする様子は織田信長を思い起こさせる。趙母卹は信長よりも残虐性で1つ上を行っている。宮城谷昌光も塚本靑史も趙母卹を良く描いているが、実際には謀殺も辞さない策略家と見做されることもある。

 

 絶世の美女の夏姫を得がたいために、楚の荘王を騙した形で得た申公(巫臣)に対して、楚は申公の親族を悉く虐殺してしまう。その恨みを晴らすために、申公は晋で得た最新の兵器を、楚の隣国の呉に供与して楚と戦わせた。同時に楚の重臣でありながら内紛で罪のない父と兄を殺された恨みを持つ伍子胥は、呉に渡り楚への仇討ちの機を窺う。そして斉の孫武は乞われて呉に赴き、「孫子の兵法」を呉の軍に教え込ませる。

 このように数奇な運命で春秋末期の思惑がへ集中し、そのエネルギーを楚への攻撃に向かわせる。その上で「狂言回し」として動いた孔子の弟子の子貢は、故国の魯を守るために呉を滅亡に追い込んでいく。こうして斉、晋、楚、呉と春秋時代における列強の「パワーバランス」が崩れていった。

「塚本春秋史」はその後「臥薪嘗胆」を描いた「呉越舷舷」で完結を見るが、宮城谷昌光の「湖底の城 呉越春秋」で取り上げているので、ここでは割愛します。

 

 

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