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20-2 香乱記 ②(斉:? ~BC 202)

【あらすじ】

 秦軍が大敗する報が咸陽に届くと、趙高は震憾する。は復讐の機会を窺い、宦官の永波の助けを借りて帝に近づき自死を迫るが、止めを刺したのは秦に恨みを持つ永波だった。三代皇帝のは趙高を殺し、翌年劉邦に降伏する。目的を遂げた蘭は田横に会うために斉を目指した。

 

 咸陽に先に入った劉邦は、鴻門の会項羽に頭を下げて王宮を譲った。宮殿の美女、財宝を独占する項羽を田横は危惧したが、斉の王田市項羽に降るつもりだった。田横は田市を見限り、斉の王は田栄が引き継ぐことになる。しかし項羽の命令に従わない田栄と田横は叛逆者とみなされ、命の危険が迫る。田栄は斉王となることで、許負の予言の恐ろしさを実感する。

 

 西方では劉邦が盟約を破り、韓信の献策を受け東進を決意する。項羽に敵対する田栄が田都、田安を攻めても項羽は援助せず、劉邦が関中に進出しても見過ごしていた。鴻門の会から項羽の動きは敏捷性が失われる一方、劉邦は弱者ながらも健気に軍事行動を広げていく。

 

 田栄は項羽との決戦で大敗して戦死した。項羽の軍はそのまま斉を躁躍するが、斉の民全てを敵に回した項羽は、補給路を断たれて兵糧の確保に支障が生じる。田横は単身項羽の本陣を目指し項羽と直接刃を交えたが、剣は項羽に届かなかった。その間に彭城劉邦に乗っ取られたため、項羽は斉から慌ただしく退去するしかなかった。

 

 田横は田栄の子の田広に即位させ、田横が宰相となった。項羽にも劉邦にも媚びない田横に対して、殺すだけの項羽と騙すだ

けの劉邦に失望した人々が集ってくる。項羽と劉邦が中原で戦う間、斉は平和が保たれていた。田横は老子の思想に基づき、存在しないような透明さを心情に治世を行うと、その能力の高さは行政にも司法にも及び、管仲以来の名宰相とも称された。

 

  

 *田横に付き従った500義士の図(ウィキペディア

 

 項羽と劉邦の戦いに決着がつくと、韓信に攻められた斉は漢に降ることにした。田横は田広を護り育てるために漢との戦いを回避していたが、その役割も終った。だが漢は戦いを続け、田広を死に至らしめた。田横はその運命を甘受し、斉のために王に就く。慕う部下たちを連れて山東半島へと逃げるが、劉邦は田横に使者を出して罪を許すことを約束し「お前は王に立てよう。部下は列侯にしよう。しかし、来なければ兵を出して抹殺する」と誘った。

 

 田横は劉邦の言葉を信じることはできなかった。洛陽に近づいたところで田横は、劉邦は自分の顔が見たいだけだろうと語って、自刎した。劉邦はその首を見て「ああ、布衣の身から兄弟三人が王となるというのは、賢者に違いない」と言って彼のために涙を流した。

 

 劉邦は田横の臣たちを呼び寄せるが、途中で田横の死を知り、その場所で悉く自刎する。そして蘭は、星が宿した田横の子を胎内に抱え、神仙の島を探しに海へと向かった。

 

 

【感想】

 許負が若き日に予言した、「田氏3兄弟は3人とも王になる」という言葉は、過酷な運命を携えて次々と現実になっていく。恐竜のような秦や楚、漢が中原で格闘する中、小国の斉の王に即位することはまさに「ダモクレスの剣」。周囲の期待と裏腹に、巨大勢カの矢面に立つことに繋がり、戦いの中で王となった兄たちは、次々と命を落としていく。その中で田横は時に謙信と信玄の一騎打ちを思わせながら、最後まで戦いを貫く。

 読み進めて思い浮かんだのは、司馬遼太郎の名作「」。幕府と官軍に対して中立を目指すも叶わずに、敗れ去る小国の家老、河井継之助の姿。そしてやはり司馬遼太郎の「燃えよ剣」。近藤勇ら仲間たちが次々と先立つ中、1人生き延びる土方歳三の生き様。この2人と田横の運命は、同じ短調の旋律を奏でている。

 諸葛孔明が、服従しない劉備の生き様は田横に重なると述べたが、宮城谷昌光も田横は後世の人々に「不屈」の精神を伝えたとしている。そして田横が決戦を前に、蘭とつかの間の夕餉を楽しむ場面は、土方歳三畿内から江戸に戻る前に、お雪とかりそめの夫婦として過ごした場面に通じる。2つの小説はともにこの場面で「タメ」を作り、そこから最終章へ向けて急加速していく。

 更に1つ。田横の生き方と死に方は、西南戦争で亡くなった西郷隆盛とも響き合う。春秋時代が始まって約600年。広大な中国大陸の中で数々の王が有能な臣を抱え、おのおのが領地を支配した時代は終焉を迎える。中華統一を果たした秦が滅亡したあと漢が引き継ぎ、群雄割拠の時代は田横の死によってピリオドを打った。

 それは武士が政権を取っておよそ700年、西南戦争における「戦死」によって、武士の時代の終焉を世に知らしめた西郷隆盛と同じ意味を持つ。その2000年前、武士道という精神の欠片もない時代に、田横の家臣たちは西郷隆盛に付き従った薩摩隼人たちと同じく、「王」とともに命を終えた。

 

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中華統一に至る」と題した宮城谷昌光20選。それは儒教や仏教が広まる前の、素の人物が活躍した時代を舞台とした人間群像で、まるでジュリアス・シーザーが活躍した、キリスト教以前のローマを思わせます。

 更に宗教に制約された行動や、後世の評価に纏われた人物像を排して、人間そのものに迫ろうとする試み。これは宮城谷昌光がデビュー前に自らに課した、日本語で使う漢字は仏教の臭いがするとして、語源を遡るために金文や甲骨文字まで独学で学んだ姿勢に繋がっている、と感じました。

 

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