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17-2 楽毅 ②(中山国:BC 295~)(1997)

【あらすじ】

  楽毅昭王に拝謁するも、燕に援助を行なう力はなかった。しかし昭王は楽毅を「千里の馬」と評価し、臣下に欲しい思いが残る。一方で武霊王の中山攻略は進み、楽毅は残された西と東の一部のみを拠点に、過酷な防衛戦を続ける。武霊王は、退位して太子の何に譲位したが、主父と呼ばれ実権を握り攻撃の手は緩めない。一方でに招かれた孟嘗君は、すぐにに戻って秦に攻め込もうとしていた。主父の武霊王はその前に中山を攻略しなくてはならない。

 

 楽毅は隠密理に中山王の尚を扶柳から逃がしていた。扶柳攻略に固執していた主父は激怒して激戦が始まる。趙の将軍趙与楽毅を侮らず、慎重を期して10万の軍勢を擁しても3,700の兵の楽毅に悩まされていた。けれども中山王尚は国の全滅を回避するため、趙の降伏条件を受け入れる決断をする。紀元前296年、中山国は滅亡した

 

 西方では斉・韓・魏の連合軍が孟嘗君の指揮の下、秦軍を撃破していた。楽毅は趙の首都で妻子のいる邯鄲に向かう。それを知った趙与は楽毅を主父に推挙したいとするも、楽毅は趙に仕えることを潔よしとせず、斉か魏で仕えたいと考えていた。

 

 では砂丘の乱と呼ばれる後継争いが起き、恵文王が主父を殺害する。では孟嘗君が王に狙われる田甲事件が起きてに逃亡する。その足で孟嘗君は真っ先に楽毅を訪ねると、魏の使者に任じて燕へ行かせた。6年前は使者を果たせなかった楽毅だが、の昭王は楽毅を手篤く迎え、仕官を強く求めた。楽毅は信義のために妻子を魏に人質として残して、燕に仕える決意をする

 

 斉への復讐心に凝り固まっている燕の昭王に対し、楽毅は燕が小国としての立ち回りを説く。昭王は楽毅に信頼を置くも、暗愚な子の太子は楽毅をひたすら中傷する。燕は斉の命により宋への派兵に従わざるを得ない立場。そこで楽毅は斉の宋攻めに魏と楚を巻き込み、燕が過大な血を流さないようにして、力を温存することができた。宋が滅亡した後、斉・魏・楚が争う場を作れば、燕は一兵も使わずに斉を窮地に追い込むことができると目論む。

 

  *燕の昭王(ウィキペディア

 

 紀元前288年。秦の昭襄王、斉の湣王(びんおう)がそれぞれ帝位に就いたが、斉の湣王は秦への派兵を決め、連合軍の兵を楽毅が率いる。楽毅は迅速な進軍で武功を上げる中、楽毅は昭王の意に沿う形で、突如斉軍の一部隊を攻撃し、斉は大敗する。

 

 この情勢を見て秦も斉を討つ気になり、楽毅が指揮して秦・韓・魏・趙・燕の五国の連合軍が斉を攻め込む。楽毅はわずか五千の騎兵で斉の首都・臨洲を突く奇襲を決行し、攻略に成功する。燕軍の快進撃は止まることを知らず、斉の守る城はわずか二城となった。その時斉を指揮するのは田氏の子田単。絶体絶命の田単は後方の燕を撹乱して楽毅を斉から退避させようとする。

 そして楽毅には、自らの運命が暗転する出来事が待っていた。

 

 

 

【感想】

 燕の昭王は父を殺した斉に復讐を考えていた。だが燕兵は弱兵で、辺境の小国でもあるため人物が集まらず、更には斉からは属国扱いを受けている。口惜しくてならない昭王は、国を強くするためには「千里を走る馬」のような、優秀な人間を集めねばならない。

 後半では、中山国滅亡間近の中、3,700の兵で10万の趙軍を相手にした呼油の戦いや、燕に仕えるようになってからの戦いなどが描かれており、楽毅の将としてのオ能が余すことなく描かれている。いずれの戦いも策略を巡らして、寡兵で大軍を翻弄する日本人好みの内容。

 楽毅は滅亡する中山国で戦術を駆使して数々の戦功を上げるも、戦略的には国力の差が物を言い、徐々に追い込まれていく。その中、中山王から冷酷な仕打ちを受けた楽毅は、楠木正成のように最後まで忠誠を誓う考えはない。滅亡寸前の越を支え、再興を果たした後に越を去る范蠡をイメージしているのと思える。孔子が開祖の儒家の思想はまだ一般に浸透していない頃で、教派や学問よりも、素の人間としての生き様を演じているように思える。

 それは楽毅の戦い方にも現われている。「孫子の兵法」を学んだにも関わらず、間諜は詐術を弄するやり方は決してせず、情報を得るためだけに活用して、そこから自らの戦略を練る。対して斉の田単も滅亡寸前の斉を立て直し、日本では木曽義仲倶利伽羅峠で披露した「火牛の計」を用いて燕軍を混乱に陥れ、失地回復に成功した。

 

 

 *中山国が滅亡したあとの「戦国七雄

 

 春秋時代は、大国の晋が魏・韓・趙の3国に分かれ、楚が呉の侵掠に屈して力を落とすことで戦国時代に移った。戦国時代前期は魏が優れた治政から富国強兵を成し遂げて覇権を握るが、その「法」は公孫鞅商鞅)が継承し、覇権は魏から秦に移る。残る大国の斉は楽毅の攻撃により滅亡寸前まで陥り、命脈は保ったが国力は損なわれ、秦による天下統一へと進んでいく。そして1つの戦いでも、各国の「合従連衡」により、影響は中国全土に広がっていく。

 そんな戦国時代の「屋台骨」を揺るがした活躍をした楽毅だが、その没年はわかっていない。斉の攻略寸前にその立場を失い、かつての敵であった趙に亡命して望諸君と呼ばれて、失意の内に亡くなった。なお亡命後に燕の恵王に対し、先君の敬愛と忠誠を記した「報遺燕恵王書(燕の恵王に報ずるの書)」を送る。これは諸葛孔明の「出師表」と並んで、「泣かぬ者は忠臣にあらず」と言われる名文とされている。

 

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