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17-1 楽毅 ①(中山国:BC 295~)(1997)

【あらすじ】

 中山国に接した小国。宰相の家に生れた楽毅は、頭脳明晰で才気の片鱗を見せていた上、にある孫子の門への留学することで、その才能が磨かれる。そこで知友となった田氏の子田単と、将来敵として遭いみまえる運命が待ち構えていたことは知る由もない。

 

 趙の武霊王は隣国の中山国を「望見」し、併呑する意欲を隠さない。楽毅は斉の宰相の孟嘗君を訪ねるとその人望に圧倒され、武霊王に対抗するためには孟嘗君の力を借りるしかないと考える。孟嘗君は趙王と異なり、同盟した者は死ぬまで守り抜くという、信義の人であった。

 

 中山を威嚇する趙国。楽毅孟嘗君に頼るべきと訴えるも、父はに頼るべきと判断し、太子が使者となり楽毅を従えて魏へと向う。しかし魏に仲裁する力はなく、成果なく戻った太子を中山王は非情な言葉で迎えた。孟嘗君は中山国の滅亡を予想し、太子を亡命させてはどうかと楽毅に伝える。しかし太子は運命を甘受し、その時が来たら自らの子を斉に亡命させるよう依頼した。

 

 趙の武霊王は自らの野望を果たすため、中原にはない騎馬軍団の増強を断行した。中山も騎馬軍団を編成し、周から(ど:クロスボウのような弓で、当時の最新兵器)を大量に買いつけて防衛力を高め、楽毅が指揮する「孫子の兵法」を駆使して趙に抵抗する。驚いた武霊王は戦線を立て直し、目標を中山一国に絞って攻め直す。楽毅は父と別れて、井脛の塞を攻め込む趙与の軍を巧妙な用兵で守り切った。しかし父は激戦の末亡くなり、中山は四邑を献ずることで停戦が成立する。

 

 講和の使者として送られてきた楽毅を、武霊玉は中山国のキーマンと見て謀殺する決心をしていた。その謀略を、迎えた敵将の趙与の好意によって助けられた。しかし中山王は楽毅に対する不満が収まらず、不成立に終った講和の責任を追及し、自殺を命じようとした。

 

 趙の第四次中山攻伐が始まった。中山は防衛に終始し東部はあらかた趙の支配下になった。中山王は楽毅に青陽の奪取と、果たすまでは帰還を禁じる厳命を下す。その戦いに太子は子の尚を従軍させる。斉に近い青陽を攻略した楽毅だが、先の展望が見えず尚を斉へ亡命させる。

 

  楽毅ウィキペディア

 

 度重なる敗戦に趙軍は本腰を上げ、20万の兵を動員して5年にも及ぶ長期戦が始まった。その間中山王は敗走の中で傷を負って亡くなり、太子が王に即位した。楽毅は城に頼ることを止め、山河を城と堀にして趙車と戦う決意をしていた。その数1,5O0騎。

 

 中山の抵抗が続く中、楽毅は自ら燕の郭塊を訪ねて助けを求めた。燕の昭王は即位した時に、父と国の仇である斉を討つことを誓った王。斉に勝つにはどうするかを郭塊に問うに、

王必ず士を致さんと欲せば、先ず塊より始めよ

 そうすれば、塊よりも賢い者が千里を遠しとせずにやってくる、と答えた。

 

 *中山国を取り巻く、当時の勢力図

 

 

【感想】

 春秋時代は「覇者」が存在して諸国の利害関係を調整したが、戦国時代になると諸国の王は「欲」を隠さない。大が小を併呑していき、日本の戦国時代において守護大名から戦国大名に変貌したような様相を呈してくる。趙の武霊王が行なった「望見」は、趙国の祖となった趙撫血が隣国を覗きみて併呑することを献策し、後継者として認められた「野望」に通じる。

 作者は、寡兵によって大軍を破る楽毅の戦法は日本人の好みに合うと考えた。孫子の塾で学んだ戦略は、戦国時代に出現した諸子百家の1人の墨子を引き合いに出して、落ちない城はないと達観し、戦術に囚われない融通無碍の考えを持った希有な人物として描いている。

 また楽毅は単なる軍人に治まらず外交や内政の能力も有し、日本人が好む諸葛孔明楠木正成を彷彿とさせる。軍事面に突出した孫武と比較して、斉の桓公を支えた管仲に近い素質も見せる。しかし管仲桓公を持ったが、楽毅の仕えた中山公は桓公とは比べものにならない愚昧な人物。中山公は自分の思い通りにいかないと家臣のせいにして、決して子や家臣に労りの言葉を見せることがない。評判の良い楽毅を死に追い込もうとするなどの「暗愚」だった。

 趙からの攻撃に、楽毅は父と二手に分かれて防禦を試みるも実父は戦死する。これは日本の戦国期、島津軍の攻撃で親子二手に分かれて籠城し、実父の高橋紹運が命を落とすも子の立花宗茂が生き延びた戦いを思い出す。

 本作品で作者は、「すぐれた君主に仕えればすぐれた臣になる」と説いた。楠木正成後醍醐天皇に意見を採用されず翻弄されながら、最後まで忠節を尽くして命を落とし、楽毅の場合もその可能性があった。しかしここから、楽毅楠木正成と運命を分かつ。

 

 

楽毅と対峙し、騎馬軍団を編成して北部地方を席巻した、趙の武霊王(ウィキペディア

 

 捨てる神あれば拾う神ありで、中山王が亡くなった後、燕の昭王楽毅の才能に惚れ込み、そして家臣の郭塊は「塊より始めよ」と言って楽毅の登用を進言する。

 楽毅の生涯。実は前半の中山時代は余り知られていないらしい。作者は、故郷では主君に恵まれなかった楽毅が、燕で翼を得たことで、大国を柏手に中国の歴史でも出色の活躍を見せる物語に仕立てた。

 しかしまだ中山国は滅亡していない。楽毅は恵まれない状況の中、国の存亡を賭けて大軍の趙を相手に戦いを続けることになる。

 

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