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【あらすじ】
5月5日に斉の君主の子田嬰に子が生れたが、奇数が重なる日(重陽)は縁起が悪いとして「殺せ」と命じる。庭師の僕延は子を匿うため、射弥に田嬰邸への潜入を命じる。射弥の家に行くと、射弥は君主の息女を既に匿っていたが、僅かな隙に射弥は殺され、赤子2人の姿は消えていた。
同じ頃。太子の妾だった風麗は、太子の子を産んだことにするために、赤子を1人捜して欲しいと兄の風洪に頼む。風洪は遊里に行くと、隣室から射弥という男の家を襲って赤子を殺す計画を聞いてしまい、赤子をもらおうとして現場に潜入する。2人いる赤子の内の男児を風洪は貰い、もう1人の女児は隻真という青年がつれていった
風麗の企みは太子に露見して命を狙われる。風洪は風麗と赤子、そして翡媛というもう1人の娘を連れて、かつて世話をした公孫鞅がいる魏に向かう。公孫鞅は宰相まで推薦される程の実力者となっていたが、恵王は本気にしない。それを知った公孫鞅は魏を出て秦に行くことにした。
公孫鞅、風洪、風麗、翡媛。そして翡媛に抱かれる田文らが秦の地に立った。公孫鞅は秦の孝公に会い、君主の道は帝道、王道、覇道とあるが、どの道を歩みたいかと聞いた。孝公は帝道を選ぶと帝道を話し、2回目は王道を、3回目の覇道で刑典について話し、孝公を惹きつけた。こうして公孫鞅は秦で官職を得、妻となった風麗は涙を流して喜んだ。
風洪は成長した公孫鞅を見て学び直したい気持ちが芽生え、また文の身許を探し当てたい理由で、斉へ戻ることを決意する。公孫鞅は学問の師として尸校をすすめてくれた。風洪は一年ぶりに斉に戻ると、隣の隻真という若者が家を守ってくれていた。風洪は尸校を探し始めた。
尸校は公孫鞅との約束を守り、秦へと向っていた。秦では公孫鞅が峻烈な法令を公布し、法令を徹底させるために腐心していた。一方風洪は畑を耕し、残りの時間を学問に専心した。斉では風麗や翡媛をムチで打った太子が君主になり、琴を教えていた鄒忌(すうき)という者を宰相にしたという。この頃、風洪は名を白圭(はくけい)と変え、翡媛を妻とすることに決めた。
魏では孫子が同門の将軍龐涓の罠に嵌まり、監禁され額に刺青をされた上に両足を切断された。それを聞いた白圭(風洪)は孫子を助けに行くことにした。そこで僕延を紹介され、文が斉の公子・田嬰の子であることを知る。やがて孫子は救出され、孫臏(そんびん)と呼ばれる。
白圭は後事を孫臏に託し、周で商売を始める。田文は孫臏の教えから、白圭の「仁」を感じる。斉の威王は孫臏の才に惹かれ顧問の役職に就け、趙を支援する軍を派遣して孫臏が従軍する。「桂陵の戦い」で孫臏の策略は見事に嵌まり、魏軍は3万以上の兵が戦死した。
*公孫鞅(ウィキペディア)
【感想】
文庫本で全5巻に渡る大長編だが、前半の3巻でタイトルの「孟嘗君」の言葉が出されたのは1回のみで、主人公の田文が活躍する場もほとんどない。まだ10歳程度に成長する中で、物語前半の主人公は養父となる風洪(後の白圭)。商人の風洪が、ひょんなことから幼児の文を預かって斉から魏、そして秦と旅を繰り返し、その中で文を育てていく。この白圭は大商人となってその後の商人の目標となった人物として、「春秋左記伝」でも紹介されたという。
太公望が建国した斉の国は、600年続いたあと姜(きょう)一族を田氏が滅ぼして戦国時代に突入する。孟嘗君の父は(田)斉を建国した太公から五代目の王、宣公の弟にあたる。
秦国。中原から離れた西の山岳地帯に位置し、春秋期は「野蛮国」として重要視されず、周辺諸国からは一段下に見られていた。公孫鞅がこの国に厳格な「律」を持ち込むと、剽悍な兵は戦術を得ることで強国に成長し、国を統べる「英雄」が王の座に就くのを待つ体制を整える。
白圭は管仲が定めた国力の基準を学び、元の商人に戻って行く。斉は「士農工商」の身分制度があり、商人は公孫鞅が軽視した存在。しかし白圭は公孫鞅の作った「律」には「仁」が欠けていると看破する。その根には、公孫鞅の虐げられた人生から生まれた復讐があると察する。
他にも諸子百家の1つ、縦横家の蘇秦や張儀も登場させて、この時代のオールキャストを集めて物語は進んでいく。主人公の前半生が知られていないのはよくあるが、食客を集める侠客のような孟嘗君を描くため、いつもよりも登場人物を多彩に登場させて、想像の翼を広げて描いている。
その中でも重要な役割を担う孫臏(私は(初代?)孫武と同一人物と勘違いしていた)。孟嘗君は「第二の孫子」と呼ばれる孫臏からも軍略と人間の機微を吸収し、各国の状況を肌で感じ、養父白圭からは「仁」を学び、そして多くの食客と交わることで「人」を知ることになる。
*孫臏(ウィキペディア)
なお孟嘗君の出生については、作者宮城谷昌光の故郷から出た徳川家における由来を借用したように見える。生まれた子を殺すように親から命じられたが、家臣が匿って育てていく。家康の子結城秀康や、二代将軍秀忠の子保科正之の故事を彷彿とさせる。
また古代中国では、奇数は陰陽道の「陽」として縁起が良いとされていたが、奇数が重なる(重陽)日は逆に「強い陰をなす」日として不吉とされた。時代が下ると五節句として、(元日は別格)1月7日の人日(七草)、3月3日の上巳(桃)、5月5日の端午(菖蒲)、7月7日の七夕(星)、9月9日の重陽(菊)が定められた。
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