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14 孔丘(魯:BC 551~BC 47)(2020)

【あらすじ】

 大国に挟まれた小国ので生まれた孔丘(孔子。父は早くから死に別れ、母は孔丘を置いて家を出ていく。貧しい中生活した孔丘は15歳になると、儒学で身を立てようと決意する。葬儀を司るも中には墓荒らしもする儒家を、葬儀の中にある礼を学び、教える立場に変えようとした。

 

 孔丘は宇宙の原理たるを社会における秩序と捉え、庶民を精神世界へと善導しようとしていた。しかし魯の下級貴族である陽虎は、礼は貴族社会にのみ適用すればよく、庶民には不要とした。孔丘は30歳で老司書から「惟敲学半(いこうがくはん)」という言葉を知り感動する。人を教えることは、半分は自分が学ぶこと。この言葉は学び続ける孔丘の生涯を決定づける。

 

 魯国にも騒擾が渦巻く中、孔丘は留学を兼ねて当時中国の都であった周に赴くと、ここで孔丘は老子と出会う。老子が教える商(殷)の支配形態は、商の王が神意を聴いて官民に伝えたに過ぎないと語る。ところが紂王は自らが帝という神となり、神が願いを叶えないために民が怒りの声を上げた。その声こそが「歌」であり言葉であると。孔丘40歳、「不惑」を知る。

 

 魯の昭公が国外で客死し、老子が別れを告げたのを機会に、孔丘は魯に戻る。帰国した孔丘の教場は弟子が増えて活況を呈したが、魯国は危機に晒されていた。昭公が亡くなったあと下級貴族の陽虎がその本性を現し、力で主家を凌駕すると重臣たちを駆逐して、独裁体制を固めていった。

 

 陽虎は人望の厚い孔丘を利用しようとする。陽虎の脅威を感じた孔丘は巧みに逃れたが、更なる追求をかわすために斉へ亡命しようと決意する。追跡を振り切った孔丘だが、途中夫や子が虎に殺された夫人と会う。酷い目にあってもその地を離れない理由は、厳しい政治がないからと答えるのを聞いて、「苛政は虎よりも猛し」と嘆じる。

 

  孔子(国立故宮博物院

 

 斉は当時、引退したとは言え晏嬰の人望が抜きんでていた。しかし孔丘は晏嬰が吝嗇と聞いて近寄らず、そのため齟齬ができた。斉の景公や家臣たちは知識と人望から孔丘を取り立てようとしても、孔丘を葬儀集団の指導者と見ていた晏嬰は「傲慢」として反対する。そのころ陽虎は内戦に敗れ逃避したことを知り、魯に帰国する決意をする。孔丘50歳にて「天命」を知る。

 

 魯に帰国して取り立てられた孔丘だが、自信家の孔丘に対して風当りは強くなり、55歳から68歳まで続く長い放浪の旅が始まった。諸国を渡り歩きながら教え学ぶ生活から、天命による定めは避けてはならない60歳で知る。

 

 ようやく魯から帰国を求める使者が来て、孔丘は太夫として舞い戻る。70歳にして心の自由を得た孔丘だが、年少の高弟たちに次々と先立たれていく。自らの衰えを知った孔丘は、73歳で亡くなる。それは15歳から学び続けた生涯の、最初の休息であった。

 

 

【感想】

 孔丘(以下、孔子)に対して40歳、50歳、60歳、70歳と区切りとつけて描いた宮城谷昌光。自身の孔子に対しての取り組み方を、50代に一度取り組むが諦め、60代で再考するもやはり無理と再認識して、70代となって孔子を書く決意をする。その姿勢で「論語」にまとわれた虚像を排し、2メートルを超える巨人の、生身の孔子に迫ろうとした。

 しかしこの時代に書は少なく「知識人」は貴族に限られた。知識を発揮するのは政道を携わる者な限られ、孔子の家柄はその中にない。そのため弟子を抱えながらも、知識を発揮できる立場を求めて、諸国を放浪することになる。

 そして孔丘の思想は弟子が3,000人はいたと言われるが「生」の声が残されることはない。始皇帝による「焚書坑儒」を経て、世情が落ち着いた漢の時代になってようやく「論語」としてまとめられた。

 孔子が生まれた魯の国の開祖、周公は商(殷)を滅ぼした周の武王の弟で、礼を持って周王朝の基礎を築いたとされている。その遺風が残る魯に生まれた孔丘は、周公旦を生涯の目標とした。当時は葬儀の際に段取りを教える程度に思われていた儒学を、万物の真理を解き明かす「」を通して、現実社会に下ろす手法を扱う学問へと変貌させた。

 孔子は同時代で隣国の宰相を務める子産に敬意を示し「恵人」といて扱った。子産は中国初の成文法を発布したとされているが、作者はその意義を、法で国民を支配するものではなく、貴族の恣意的な意向から国民を守るためのもの、つまりは権力を制限する「憲法としている。小説「子産」で最後に記した子産の述べる「礼」は、引用できないほど高度な内容で、まるで大日如来が宇宙の真理に迫る内容となっている。

 対して斉の晏嬰とは、最後まで理解し合えない(身長が135㎝の晏嬰と2mを超える孔子とは、合わなかったのか?)。礼を重んじる儒学を教える孔子が、一方で傲岸と思われ敵を多く作るのは、孔子と言う人物によるものか、それとも「礼」にそのような性格が内包しているのか……

 

  老子ウィキペディア

 

 そんな中で老子に対しても、作者は年老いた人物という一般名詞を使って孔子との邂逅を描いている。老子自身が謎の人物とされているが、作者は同時代に生きた説もある孔子老子を、何らかの形で交差させたかったのだろう。

 孔子も諸国を放浪するうちに、様々な宮城谷作品の人物「交差」している。論語の「子曰く」がいつ、どこで、どのような背景で言われたのかがわからず、信用できないがための手法と思われるが、そのために孔子の周辺に見える「風景」を描いて、孔子を炙り出したように思える。

 

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