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【あらすじ】
中国の春秋時代中期。北に晋、南に楚という大国に挟まれていた鄭(てい)。名門にも関わらず礼を重んじるため周囲を併呑する道を選ばず、時に晋、時に楚に付く外交を強いられていた。
穆公(ぼくこう)の公子に生まれ、姉に屈指の美女と謳われた夏姫を持つ子国は、軍人として優れた力量を備えていた。鄭は当時成公が楚と友誼を結んでいたが、宰相の子罕は晋と同盟を結ぶべきと考えていた。楚は晋から楚に誼を結んだばかりの鄭に、宋と戦うよう命を出す。子罕はほどよく戦って前面対決を避けるように目論むが、子国は少数を率いて宋を追走し、将軍2人の首を取る功績を上げる。子罕は苦虫を潰すも子国の活躍を褒め、子国は徐々に家中で重きをなす。
子国の嫡子の子産は若くして故事由来に詳しく、父の近くで家臣の言に耳を傾け、子細なく情報を得ることで天下の情勢を把握する。そこから捨てるものは捨てて本質をえぐり出すかの如く発せられる意見に、周囲は「神知がある」と評するようになる。
その後鄭の宰相は子罕から子駟に替わり、子国は軍事を統括する司馬として支える。しかし成公の後嗣の僖公(きこう)は粗暴で臣下の意見を聞かず、時には残虐に命を奪うこともあった。子駟はその脅威を恐れ、僖公を毒殺して国政を握り、子国を味方に引き込んだ。しかし子産は父子国に、「主殺し」と行動を共にすべきでないと諫言する。
子駟は僖公の5歳の子簡公を即位させて実権を掌握する。ところが私欲を得ようとした疑いが持たれ周囲は離反し、子孔が子駟と子国を殺害する。しかし子孔も定見はなく、1年半の間に5回も晋と楚の間での同盟と離反を繰り返し、周囲から不信の目で見られてしまう。
*子産(ウィキペディア)
子産は父の子国が殺害されるとすぐに簡公を避難させるために軍を動かし、その後は父の死に対して完全に喪に服した。子孔が恐怖で民の不満を抑えようと命じたときに、子産は堂々と諫言してその命を下ろさせた。
服喪が明けると子産は26歳で11歳の簡公に仕えるが、若くして子産は家中の、そして公の期待を一身に浴びる存在となっていた。家中の実権も徐々に子孔から子驕に移り、子驕は子産を重用していく。子産もその期待に応え、政道にそして軍事にとその手腕を発揮する。晋と楚の対立も、それぞれの国の内情から弱みを探り、小国ながら大国に巻き込まれないような外交を繰り広げ、内外の平和をもたらすことに成功した。
しかし鄭は楚と晋の両国に貢ぎ物を差し出す必要が出てきた。子産は増税政策に舵を切り、一時は農民に恨まれる。しかし改革が軌道に乗ると農民も増収を実感できるようになり、子産を賛美する歌まで作られるようになる。子孔の孫にあたる子皮は子産に宰相の座を譲ると、引き継いだ子産は21年に渡り宰相を務め、鄭を安定に導いた。

*鄭の国を中心とした、春秋時代の各国勢力図(ウィキペディア)
【感想】
先に挙げた晏子(晏嬰)と同時代に生きた子産。晏子と同じように、公族の血を引き父は軍人として名を馳せ、そして本人は礼に重んじる知識人として周囲から期待される。やがて宰相として長らく国政を担い、国の安定を導いていった。その生涯は同じ軌跡を描く。
しかし晏子は父が宋から斉に亡命したために譜代の家臣ではなかったが、子産は穆公の孫にあたり、父は王や公子そして家宰などが兄弟始め親戚に数多く、国の中心的存在であった。更には斉は大国の1つであったが、子産が背景とする鄭は大国の晋や楚に挟まれた小国で、難しい舵取りが求めらる情勢。背景は少しずつズレている。
そのために本作品では、今まで描かれた様々な「宮城谷作品」の人物たちが、小国鄭を巡る周辺国の家宰として登場する。伯母にあたる夏姫の夫となり、晋に移って宰相となった巫臣。宋の華元、晋の趙武と楚の子木などに加え、各国の公たち。
その中でも最高の知識人と評された子産。情報を集めそこから公たちの心理状態を読み取っては大国を操る材料として、その上公たちの死期まで予言するほど「スクリーニング(ふるい分け)」をして断を下す能力を持った男。礼に重んじ礼から万有の法則を求めて実践したのは、哲学者でもあり、ギリシャやローマの巨人たちと比するべき存在であったのかもしれない。そして私は、情報収集と本質をえぐり出す能力を父や周囲から認められる姿から、日本の戦国大名の北条氏康を思い出した。
ウィキペディアでは、中国史上で初めて成文法と作った人物として紹介しているが、その点は本作品では余り触れていない。また孔子は管仲や子産ではなく、両者を登用した鮑叔や子皮を賢者としている。弟子は孔子の答えに疑問を持ったようであるが、その疑問は私にも引き継がれている。
鮑叔は、管仲がいなければ自ら執政を務めることができた「賢者」である上に、評価されていなかった管仲を引き上げた能力もあった。しかし子産は子供の頃から周囲の期待を集め、クーデターが重なり世情が混乱する中で、立て直すのは子産しかいないと衆目の一致する評価が既にあったもの。その子産を置いて、登用した子皮を賢者とするのはどうだろうか。
子どもの頃から突出した才能を周囲に見せつけていた子産は、春秋時代で随一の「知識人」であったことは、間違いない。
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