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【あらすじ】
春秋時代の中期。西から秦・晋・楚・斉と大国が並び、このうち晋と楚は超大国として君臨していた。そんな晋の家臣の郤克(げきこく)が斉の頃公(けいこう)に会同の出席を求めるが、頃公らは郤克の容貌を侮辱して恥をかかせてしまう。そのため頃公は晋が主催する会同への参加を渋り、結局代理として家宰の高固を派遣し、晏弱(晏子の父)が供をすることになった。
晏弱は斉の西方の宋の公子だが、宋王の後継争いに巻き込まれたため、一族が宋を出て斉へ亡命した経緯があった。そのため晏弱は自分を受けていれてくれた斉に特別な愛情を持ち、斉のためならば命の危険も顧みない決意を持っていた。
会同に向かう途中、斉から追放された崔杼(さいちょ)から「晋は頃公が出向かない斉の使節に、最悪の出来事を起こす企てがある」との情報を得る。不穏な雰囲気を察知した高固は斉へ逃げ帰ってしまったため、晏弱が代わりに会同に出席する。案の定、晏弱は他の家臣たちと共に捕えられるが、晏弱の人柄に惚れた人物の手引きによって、密かに逃げ出すことができた。
生きて帰った晏弱はその人格と才覚を周囲と頃公から認められて、次第に重きをなしていく。特に軍事において才能が傑出していた。しかし頃公が晋に戦いを始めた際、晏弱は知らされていなかった。晏弱は崔杼から敵方の動静を聞いて、敗戦の予感を抱く。
戦は果たして負けたが、これを機に頃公は先頭に立って戦後の復興に力を注ぎ、敗戦国の斉を見事に立て直して亡くなった。その頃晏弱には男の子供が生まれるが、元気な泣き声と裏腹に脆弱なため、無事な発育を祈り「嬰」と名付けた。崔杼は一時は追放された斉に戻ると、新君主の霊公に取り入ることに成功し、追放に手を貸した高氏と国氏への復讐を始める。
頃公の後を継いだ霊公は領土の拡大を求めた。しかし広げられる領土は東にしかない。東は沃土も邑もなく、平定に労力がいる代わりに益は少ないため長年放置されていた。霊公から託された晏弱は、攻略は長期化する覚悟を必要と考え、まず少数で行うことにした。だが言葉とは裏腹に、晏弱は敵将との知略会戦に勝ち、あざやかに攻略することに成功する。
晏弱の子の晏嬰は、成長するとすぐに注目を浴びる。この頃は女性が男装することが流行していた。霊公はこの風潮を止めたかったが、王宮の女宮が率先して男装するために、君を諌めることができない。だが晏嬰は、恐れずに堂々と王に諫言をして、この服装の乱れをただした。
そのころ霊公は後継者で悩んでいた。晋に人質にやった太子光を後継に据えていたが、霊公は光を排して公子牙を後継に替えることを企んでいた。そのことは太子光を推す崔杼と公子牙を推す高厚、夙沙衛の権力闘争にも繋がっていく。そんな中、斉を支えるべき人物である晏弱は病にかかり、あっけなく亡くなった。
【感想】
斉の国は「商周革命」で功あった太公望が拝領して建てた国。沃土ではない領地だったが、塩田開発などで国を富ませ、(西)周の衰退後は他の国とともに大国としての威容を成していた。そして中央の晋よりも早く桓公が現れると、名宰相の管仲の支えにより春秋時代の最初の「覇王」として君臨する。太公望を生んだ羌(ちょう)族は優秀な民族とされ、国の治世に相応しい王や家臣が代々生まれてきたのだろうか。
しかし晏子の父の晏弱は隣国の宋の出身のため、王族の流れを汲むも斉の中では譜代ではなく地位は低い。そんな中で「重臣」たちにいいように使われ、何度も危機に晒されるも、王族出身とは思えぬ胆力でその窮地を乗り越えていく。
そのエネルギーはどこから来たのか。宮城谷昌光は「(晏弱は)自分を受け入れてくれた斉という国と民に特別な愛情があり、斉のためならば命の危険も顧みない決意でいた」と理由付けている。家宰としての手腕と軍事的才能が合わさった晏弱だが、内部抗争には背を向けて、「斉」という国のために尽くし続ける。
それを日本史上で例えると、後醍醐天皇と出会った感動から生涯を尽くした、楠木正成に通じるものだろうか。そして楠木正成同様、晏弱が受けた感動と斉へ尽くした生涯は子へと引き継がれていき、後半でようやく「タイトル」の人物が物語の中心となる。
ちなみに晏弱が考える「兵をあげる4つの原則」が興味深い。
1 国が貧しくてはいけない。
2 かならず勝つ戦いをしなければならない。
3 たとえ勝っても、戦死者をだしてはいけない。
4 敵地を得ても、そのことで国が敗れるとことがないようにしなければならない。
本文では先人に敬意を表して「菅子の兵法」と言わしめているが、子の晏嬰と入れ違いのように斉に現れた「孫子」の兵法であり、それこそ現代にも通じる「真理」でもある。
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