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10 華栄の丘(宋の華元:BC 588頃)(2000)

【あらすじ】

 華元(かげん)は宋王室の分家にあたり代々丈夫を務め、職管はないが貴族の間では一目を置かれていた。対して君主昭公の評判は悪く、弟の公子が兵を挙げるとの噂がたつ。昭公の祖父襄公の王妃で王宮で力を保持してきた王姫は、公子鮑の側に信望のある華元を推挙し、ともに宋を粛清し再建せよと命じる。

 

 公子鮑と対面した華元は、自分から兵を挙げてはならず、宋が公子を必要とするまで耐えよと献策する。公子鮑はこれを受け入れ、弟の公子に国内最大の勢力である桓氏との付き合いを控えさせた。王姫はその様子を見て華元を評価し、次に離反した国人の心を取り戻して、昭公を孤立させる手筈を整えていた。

 

 間もなく昭公は亡くなる。華元が2つの陰謀を払いのけることで、公子鮑は文公として即位することができた。華元は宰相である右師に任命される。但し宋の内乱を見て、晋の宰相の趙盾(ちょうとん)は宋を牽制する。だが王姫は晋の介入を予想していた。密かに集めていた財宝を賄賂に弱い晋の霊公に献上して、宋の意を通そうとする。これが決め手となり、諸侯は文公の即位を認めた。

 

 華元の臣として王姫とつながる士仲が加わる一方で、公子須を中心に反乱の気配がある。華元は説得して争いを回避しようとしたが、途中で王姫が待ち受け断固たる措置を命じる。そして反乱の鎮圧に貢献のあった楽呂がその後抜擢された。

 

 *昭公と文公の祖父にあたる襄公。「宋襄の仁」として歴史に名を残しましたが、正妃が本作品で存在感を示している王姫です(ウィキペディア

 

 そのころ楚軍が北進し宋の国境を侵した。王は春秋五覇荘王で、中原への野心を隠そうとしない。宋の同盟国の晋軍は趙盾を将として援軍に来たが、華元はこの戦いの中で、何と御者に裏切られ敵陣に捕らえられるという、中国戦史上珍奇な事件に巻き込まれる(大棘の戦い)。華元への信頼が厚い文公は、取り戻すためにいかなる償いもすると申し出た。その陰で士仲が、華元を敵陣から救い出すことに成功する。

 

 戦いを好まない華元と、我を見せない文公の2人に治められた宋は、7年間平和が保たれる。しかし8年目に楚の荘王が再度進撃し、宋を挑発して戦端を開こうとする。礼を重んじる宋の文公はその意図を承知しつつも、見過ごしたら宋は戦う前に死んだ国になると考え、敗北覚悟で楚と戦う決意をする。晋への援軍要請をしている間に楚軍は速やかに商丘の城を包囲した。当時100日耐えれば城の包囲軍も国力を落として撤退すると言われたが、籠城は200日を超えて耐え抜いた。

 

 200日を超えると餓死者も出たが、宋の兵士の戦意は揺るがない。荘王は遂に根負けした。

 

 

 

 *春秋期の宋を巡る地図。南方に楚と接しています(本書より)

【感想】

 宋(春秋時代)は、遙か昔に周に滅ぼされた商(殷)の流れを汲む氏族によって建国された国と言われる。当時もまだ続いている周王朝の姓は「(き)」で、この氏族による国は70以上存在した。対して滅びた夏王朝の姓(じ)」や宋王族が流れを汲む商王朝の姓」は、再興しないといわれた。日本に置き換えると、姫姓は源氏で子姓は平氏

 しかし建国時の由来から、宋は周から当時唯一である「公爵」の身分が与えられていた。楚の国王に授けられたのは子爵で、だいぶ差がある。明治維新後に日本にも導入された爵位制度(公・侯・伯・子・男)は、中国では清の時代まで続いた。

 昭公とは合わず重く用いられなかった華元は、次代の文公と誼を深めることで、自分の力を発揮することになった。本作品では文公と華元の信頼に基づく関係と対比して、晋の霊公と趙盾とで関係が悪化する姿を描いている。霊公が暗殺され、逃げた趙盾が政情を治めるために引き返した時、周囲は真実を見ず暗殺の首謀者と推測し、後に「美名と汚名はわずかな差しかない」と批評している。

 華元を「人を包み込んで明るく磊落な性格で西郷隆盛を思わせる男」と作者は評した。華元は荘王を撤退させたあと、大国晋と楚の和睦を実現させる。そんな華元が生まれた宋国は、およそ50年前に行われた泓水の戦いにおいて、「宋襄の仁」の逸話を残している。圧倒的不利の中で渡河中の敵軍を攻める千載一遇の時機を、襄公は仁義を守るため攻撃を制止して、結局敗れた。

 

 最後に。籠城して兵糧が底をつきかけたが、同盟国の晋は楚に敗れたために援軍が出せない状態にあった。晋が宋へ出した使者は楚の荘王に捕えられ、宋陣中に援軍が来ないと言わせようとしたが、使者は土壇場で援軍が来るといい、荘王を怒らせる。

 この挿話は織田と武田が争った長篠の戦い鳥居強右衛門を思い出させる。包囲網から抜け出して織田方に助けを求めた強右衛門は、再度城に戻ろうとして武田勝頼に捕まる。勝頼から援軍は来ないと言うよう強要されたが、約を破って城に援軍の存在を知らせ、勝頼に誅殺される。荘王は勝頼とは別の判断をしたが、三河出身の宮城谷昌光からすれば、これは素通り出来ない挿話だっただろう。

 

(こちらが鳥居強右衛門に触れた投稿。 …と思ったら「夏姫春秋」のあとがきで、作者が直接言及していました)

 

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