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晋を支えた趙家の物語。文公(重耳)を支えた趙衰から始まり、趙盾、趙朔、趙武、趙成、趙鞅、趙無恤という趙家7代の内4人を描いた、連作の短編集となっている。200年に亘る期間、晋国という巨岩にくっきりと走る鉱脈のような存在の趙家を、いかにも宮城谷昌光らしく連作で描いた。
1 孟夏の太陽
晋の公子の重耳が放浪する中、狐氏の邑で重耳に妹を、付き従った趙衰は姉があてがわれ、趙衰の子は趙盾(ちょうとん)と名付けられた。趙盾が10歳の時重耳と趙衰は狐氏の邑を離れ、残された趙盾は母と暮す。
やがて重耳が文公として即位すると、趙衰は母子を呼び寄せる。趙衰は既に重耳の娘の君姫を正妃として3人の子を産んでいたが、正妃は趙盾を長兄として敬うように厳しくしつけた。間もなく重耳がそして趙衰が逝去し、趙盾が後を継ぎ趙孟と呼ばれる。孟とは長子をあらわす。
趙盾はたちまち中軍の将、つまり首相となった。文公が亡くなり後継争いが勃発すると、趙盾に異を唱える賈季(狐偃の子)は公子楽を推すも、公子楽が断りもなく国境を越えてきたので、趙盾は法を基に兵を出し殺してしまう。賈季は趙盾の酷烈さを恐れて逃亡するが、趙盾から妻子と財宝を受け取り、「趙衰は冬日の日なり、趙盾は夏日の日なり」と評した。
2 月下の彦士
趙盾の長子趙朔は父の葬儀を、昵懇にしている程嬰(ていえい)と務めていた。この葬儀に公孫杵臼(こうそんそきゅう)が参列してそのまま居座ってしまった。程嬰は杵臼を快く思わない。
しばらくして楚の荘王が鄭を討とうと動き始めるが、晋の勇将・士会はこれに対抗する。士会は上軍の将となり、趙朔が下軍の将となった。晋軍と楚軍が激突するも、中軍が大崩壊して敗北を喫する。この「邲(ひつ)の戦」により覇権は晋から楚に移った。
敗れた趙朔は重傷を負うが、そこに晋の霊公の側近屠岸賈(とがんこ)が趙朔を排除すべしと公に囁く。これを知った韓蕨(かんけつ)は趙朔に亡命を勧めるが趙朔は残り、やがて屠岸賈が趙朔を討ちとってしまう。襲撃から逃れた正妃の孟姫は、身体に趙朔の子を宿していた。これを知った公孫杵臼と程嬰は、趙朔の忘れ形見を守ろうと命がけの策略を練る。
3 老桃残記
趙家は、趙鞅(ちょうおう)の祖父の趙武(趙朔の忘れ形見)の頃に絶えかけたが、趙武が趙家の封土を大きく回復した。周王が崩御すると争乱が起きる。戦火は王都から広がり、5年の長きに渡り続いた。この頃、趙家に陽虎という大悪人、陰謀家、謀叛人など考えられる限りの悪口雑言をあびせられそうな男が転がり込んできた。周囲は危ぶむが、趙鞅にはなぜか従順だった。
趙鞅は家宰の董安于(とうあんう)の進言に従って、晋陽の経営に力を入れることにした。董安于から任された尹鐸(いんたく)は、「空倉は満倉にまさる」として民たちを慰撫して晋陽を巧みに運営していた。
周の内乱は王の弟の朝が英邁な実力を発揮して盛り返すと、反対に趙鞅は窮地に陥り晋陽に逃げ込む。そこから陽虎か活躍し、尹鐸が運営してきた晋陽の民も協力して勝利を修め、君主に擁立された。そんな趙家には、幼い頃から変わらずに桃の木が残っていた。
4 隼の城
趙鞅の子無恤(ぶじゅ)の母は趙家の下女で低い身分。無恤は祖父趙成から、昔から趙家の庭にある桃の木の側で、家臣の尹鐸を軽んじてはならないと教えを受ける。趙鞅は子供たちの人相を見て貰うと、人相見の者は無恤を見て「天授の子」と言った。それを聞いて趙鞅は長子伯魯を廃嫡し、無恤を嫡子とした。
晋の大臣の知瑤は残虐で、強大な武力を擁して晋国の主となった。知瑤は同じ大臣の趙家、張家、韓家を従えるがその欲は止らず、趙家の封土を併呑しようとする。無恤か逃げ込んだ晋陽の民は「空倉は満倉にまさる」治世の恩義で無恤に味方する。戦が長期化する中、やがて知瑤の勝利が目前になると、無恤は配下の張孟談(ちょうもうだん)を知瑤に付く韓と魏の二卿に遣わせて離反を持ちかける。誘いに乗った二卿は水攻めの堤防を決壊すると、軍勢は大瀑布に飲み込まれる。捕えられた知瑤は処刑され、無恤は知瑤の頭蓋骨を杯として使った。
中原を支配していた大国の晋は趙家、張家、韓家に分裂し、春秋時代は終焉を迎える。
*晋が分裂して「戦国七雄」となります(秦・楚・斉・燕・趙・魏・韓:ウィキペディア)
【感想】
趙家は代々晋王に仕え、時には長子(孟)を廃しても見所のある子を後継として家を存続させた。これは趙衰の正妃であった重耳の娘が、先妻の子趙盾を嫡子として遇した教えが脈々と続いていると思える。夏の季節に始まり冬に終る連作集は、忠臣、鳥、桃などのキーワードが見え隠れする。張孟談が韓と魏を説得する際に「唇亡ぶれば歯寒し」と説得する故事成語が使われ、一方で日本史にも馴染みの深い、髑髏の杯や水攻めも登場する。
趙家一族の盛衰を見ると、徳川家を支えた大久保一族を描いた「新三河物語」を思い出す。そして新たな趙国の首都となった邯鄲(かんたん)は、立身出世の空しさを描いた「邯鄲の夢」の故事の舞台となり歴史に刻まれ、また後に趙を滅ぼす戦国の覇者・始皇帝が生まれ、人質として幼少を過ごした場所としても名を残す。
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