- 価格: 803 円
- 楽天で詳細を見る
【あらすじ】
重耳が長い放浪から帰国し文公として即位した頃、国内で反乱が起きる。駆けつけた士会は逃げた文公を保護するために探し回るが、混乱の中で反乱軍の1人を逃してしまう。
士氏の家は晋国の重柱だったが、文公が即位してからは、放浪に従っていた臣が重用されていた。衰運の中文官が多い士氏の中で、唯一武に長じていた士会を、一族の者たちは将来を開く人物として期待を寄せていた。
周の内紛を文公が鎮めることで、晋は版図と名誉を得た。その影響で楚の盟下にあった宋が晋の配下に転じたため、楚の成王は晋に向けて軍を北進させ、城濮(じょうぼく)の戦いで激突する。楚は強国だったが、士会は集団で運用する練兵で強さを発揮して敵を打ち破り、晋軍を勝利に導く。これにより士会は文公の上士として認められた。
*楚の成王(ウィキペディア)
鄭を攻めたあと文公は70歳で崩御し、少年の襄公が後を継ぐ。文公を支えた老臣たちも次々と寿命を迎える中、宰相を担った趙盾(ちょうとん)の力量は、老臣たちに比べると明らかに見劣りした。この後襄公が急逝し、趙盾は秦にいる弟の公子薙を迎えるために、士会を秦に遣わした。しかしその間に王宮で内紛があり、趙盾は後継者を襄公の太子にしようと変心する。そのため梯子を外された形となった士会は、趙盾を許せず秦へ亡命する道を選んだ。秦は士会の持つ武略の異才に気づき軍事顧問に抜擢して晋の攻略を進めると、士会は戦場において非凡な作戦を披露して趙盾を翻弄する。とても敵わないとみた趙盾は配下の郤缺(げきけつ)に命じて、騙す形で士会を晋へ連れ戻した。郤缺は士会が22年前に逃がした男だった。
趙盾が推した襄公は、成長すると粗暴になって趙盾を遠ざけ、遂には趙盾を殺害しようとした。趙盾は亡命を図ったが、国境の手前で襄公が殺されたと聞くと大急ぎで帰国する。しかしこの行動で趙盾は暗殺の黒幕と疑われ信用を落とし、政治の舞台から身を退くことに。
成公が君主となり、士会は上軍の佐(補佐)となる。士会は鄭を攻略する際に城を包囲せずに、南下することによって鄭が降伏すると予言するが、将の先穀は全く理解できない。士会は果たして南下して楚を侵す姿勢を示すが、この行動に鄭は恐れをなすと、士会の予言通りに降伏の使者がやってきた。士会の作戦に天下は驚嘆する。
楚の主となった荘王は天下を睥睨しようと、まず鄭を囲んだ。晋軍は楚の野望を食い止めるため援軍を出す。軍全体を束ねる中軍の将は宰相の荀林父(じゅんりんぽ)で、士会は上軍の将となっていた。しかしこの戦いは晋軍に不利が重なり士会は撤収を考えるも、中軍の佐である先穀が反対する。この機に判断を見送ったことで、晋軍は窮地に追い込まれてしまった。
士会は窮地を脱するために伏兵を幾箇所にも設け、最後には殿(しんがり)をつとめ、晋軍の兵を損なうことなく撤収を成功させる。この戦いで晋は覇権を失い、宰相の荀林父はおのれの器量が士会に及ばないことを悟り、宰相の座を譲った。

*城濮の戦いにおける晋軍と楚軍の進路(ウィキペディア)
【感想】
重耳が放浪から戻ってから死後に至る時代の晋国を描いた作品で、「重耳」を含め多くの作品に繋がっている。冒頭では内乱で混乱する中、駆け巡る士会が棒術の達人である介推と交錯する。放浪時に棒術で重耳を支えた介推から、君主となった重耳を軍人として支える士会へとバトンタッチする、印象的な場面から筆を起こしている。
文官が多い晋国の中で、武人の士会は文公が勢力を広げる戦いで活躍を重ねていく。中でも「城濮の戦い」は有名な挿話が織り込まれている。放浪時代の重耳は楚に赴き成王から歓待を受けたが、成王は「晋公になったら私にどう報いてくれるか」と問うに重耳は「戦場で相まみえることがあったら三舎(3日行軍する距離)だけ軍を引きましょう」と応えたという。そして実際に戦場で圧倒的有利な立場を築くも、すぐに戦端を開こうとする家臣たちの進言を退け、文公は約束を守って軍を三舎退かせたうえで楚を破り、中原を制する「覇王」の座に就いた。
重耳の後の政治を宰領したのは、長い放浪生活と共にして、姉妹を共に要った趙衰の子趙盾になる。次に取り上げる連作の短編集「孟夏の太陽」では、趙盾を含めた趙家7代が晋国を支え続けた姿を描いている。趙盾も忠臣として描かれているが、本作品では汚名を着た、二枚舌の政治家として描かれているのが興味深い。

*春秋五覇の1人、楚の荘王。祖父の成王とは描かれ方も違います(ウィキペディア)
根っからの武人でありながら、勇だけでなく知も有する士会は、趙盾の二枚舌を許さずに晋から亡命を決断する「仁」も有する。国の宰相は即ち三軍の中軍を率い、政治と軍事が一体化していた時代。武人は晋の宰相に駆け上がり、そして見事に務め上げた。
よろしければ、一押しを m(_ _)m