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10 西園寺公望 最後の元老 豊田 壌(1982)

  Amazonより



【あらすじ】

 公家出身の西園寺公望は、明治天皇の近習を務めながらも時勢に興味を持つ。まだ若年で倒幕運動には加われなかったが、その眼力と胆力で新政府の高官からも一目置かれるようになった。明治維新後は19歳で新潟県知事になるが、フランス語や法律を学び直し、1971年に大村益次郎の推薦でフランスに留学する。ソロボンヌ大学で学ぶなど留学生活は10年に渡り、浮世を流し放蕩も行なった。後にフランス総理となるクレマンソーや留学生仲間の中江兆民らと親交を結び、こうした人脈は帰国後も続いた。

 

 パリから帰国後、西園寺は「ぶらぶら遊んでいる」と、新聞の社長にと声がかかった。新聞の論調は民権の立場を取るため穏健なものであったが、政府や宮中で物議を醸し、右大臣の岩倉具視三条実美明治天皇の「内諭」まで出され西園寺は社長辞任を余儀なくされた。ここで西園寺の「青春」は幕を閉じる

 

 西園寺は官界に、そして伊藤博文に「組み込まれる」。憲法調査のために訪欧する伊藤の随員に選ばれ、帰国後は法典調査会副総裁として、あまり出席しなかった総裁の伊藤博文に代わって民法や商法の審査に当たった。

 

 第2次伊藤内閣で文部大臣に初入閣を果たし、陸奥宗光外相が病気のため後任の外務大臣にも就任。第3次伊藤内閣では再度文相。1900年には伊藤による立憲政友会旗揚げに参画し、第4次伊藤内閣では「元気な」伊藤の病気によって西園寺が臨時代理を務める。ここで伊藤による後継者育成期間は幕を閉じる

 

  *パリ留学中の西園寺公望ウィキペディア

 

 伊藤が山県有朋らの策謀で政友会総裁を辞任すると西園寺が後継に就き、1906年桂内閣を引き継ぐ形で第1次西園寺内閣が成立した。政党内閣として無難に推移したが翌年元老からの圧力があり総辞職する。再度の桂内閣を挟んだ後、政党色の強い第二次西園寺内閣が設立する。この内閣では明治天皇崩御大正天皇践祚辛亥革命後の中国への対応に当たった。しかし上原勇作陸相が二個師団増設の要求を退けられると辞職した。後継陸相を得られないことで西園寺内閣は総辞職する。ここで政界の第一線での役割は幕を閉じる

 

 西園寺は元老会議に加わり、念願の原内閣を生み出す。その頃第一次世界大戦終結し、パリ講和会議の首席全権として西園寺を派遣する方針を決めた。しかし遅れて渡仏した西園寺は重要会議で発言する機会もなく、サイレント・パートナーとして参加する。

 

 帰国後の元老会議は、山県と松方は高齢と「宮中某重大事件」により発言権が低下、その山県も死亡し、西園寺は最後の元老として役割を覚悟する。政党内閣を目論みながらも、周囲の状況より決断しきれず評判は低下することもあったが、その後「憲政の常道」と言われる政党の交代を成し遂げる。

 

 昭和に入り軍部が政治に介入すると西園寺は抵抗するが、次第に国粋主義者から恨まれるようになり、2・26事件では暗殺対象にまでされてしまう。その後悲願だった公家出身の近衛文麿を総理に奏上するが、その近衛も志半ばで総辞職してからは体調不良も重なり、元老としての役割は幕を閉じる

 

 第2次近衛内閣が設立して、反対し続けた日独伊三国軍事同盟が成立したことを憂えた西園寺は、1940年11月に薨去、享年92歳。その約1年後、太平洋戦争が開戦する。

 

  

*陰になり日向になり西園寺公望を育てた伊藤博文国立国会図書館



 

【感想】

 司馬遼太郎は「花神」で、大村益次郎が遭難する時、本来は西園寺公望もその場に招かれていたと記し、大村益次郎西園寺公望に、いずれ西郷隆盛が反乱を起こす際の官軍の大将にと密かに期待していた。その真意を西園寺が悟った時は、大村はもちろん西郷隆盛もこの世になく、その思いに応えることができずに、愕然としたという。その司馬遼太郎は西園寺を政治家でなく「文明批評家」と定義している。

 大村益次郎の企みが通じなかった西園寺だが、その思いを伊藤博文が中心となって引き継いで、公家出身の政治家として大切に育てられている様子が描かれている。フランス留学を思う存分の年月と十分すぎる留学費用を与えて行ない、将来のために新聞経営という「危ない火遊び」を天皇まで使って止めさせて、「気分屋の放蕩息子」を徐々に政府に取り組んでいく様子がなんとなく面白い。

 西園寺も公家出身としては胆力があるが、それでも軍閥や官界の強い壁を打ち破るだけの気力はない。二度に亘る西園寺政権は、倒閣運動が起きると支えきる気力がなく、共に短命に終ってしまう。しかしその後の元老人生はライバルが次々と亡くなったために、寿命が尽きるまで務めることになる。ちなみに山本権兵衛も元老に、という話には反対したが、もしも山本権兵衛が元老になったら、西園寺はその性格から、元老の役割は遠ざかっていただろう。

 伊藤博文から法律を学び、政党政治家として民権を重視した西園寺公望も、元老となってからは周囲の事情を「配慮」した。「憲政の常道」も結局は「いてもいなくても同じ」決定に過ぎなかったようにも思える。とは言え戦前は天皇の補弼としての元老は必要であり、その責任を逃れることはしなかった。それは大村益次郎の思いを後から知った「禍根」だと思いたい

 

 そんな西園寺も最後には、後継者とも思える近衛や木戸幸一に対して不満を漏らして亡くなる。せめてもの救いは、太平洋戦争の開戦を前に、そして日本の敗戦を、近衛が自殺し木戸がA級戦犯として囚われることを知らずに亡くなったことであろう。

 

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