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9-1 海は甦える ①(山本権兵衛) 江藤 淳(1976)

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【あらすじ】

 薩摩藩で生まれた山本権兵衛は、薩摩の「にせ(二才)」の中でも飛び抜けた暴れん坊。薩英戦争では子供ながら弾丸運びで参加し、戊辰戦争に従軍したあとは海軍に進んだ。しかし海軍でも、実際に戦場を経験した権兵衛は、教官に対して喰ってるかかる問題児だった。西郷隆盛が明治政府から下野した時は西郷について行くも、西郷自らの説得により海軍兵学寮に戻った。同年、海軍兵学校を17人中16番目で卒業する。

 

 任官後ドイツ留学の時に西南戦争が勃発する。帰国後も暴言は相変わらずで、時に問題となるも、薩摩の軍閥に守られて、また胆力で一目を置かれて順調に出世していく。少佐で西郷従道海軍大臣に仕えることになるが、少佐ながら大臣を正面に見据えて舌鋒鋭く噛みつく。「なぜ南州翁(兄隆盛)と進退をともにしなかったのか」と。従道の誠意ある答えに納得した権兵衛は、その後西郷従道海軍大臣に心服して、仕事に邁進して頭角を現わしていく。

 

 日清戦争後はロシアに対抗するため、人事を含む大規模な海軍における行政改革を断行した。余りにも急激な軍制改革に山県有朋から説明を求められた西郷従道は、権兵衛を直接目白の山県邸に行かせた。山本は揺るがぬ論理で改革の必要性を論じ、陸軍の実力者である山県を黙らせた。山本は豪胆にも、短刀を忍ばせながら、同僚どころか上司にもリストラを突き付ける。批判が巻き起こるが、これからの戦いには新しい知識を得た海軍士官の登用が不可欠との信念で突き進む。

 

 陸軍に隷属されていた海軍を対等な立場にするために、陸軍参謀本部の中に含まれていた軍令部の独立を主張して、陸軍に喧嘩をふっかけていく。そして戦争では陸軍が主、海軍が従となる傾向を改めるため、山県始め内閣の前で、「海上権」として兵站のために海上を制覇することは、海外派兵のために必需と主張して、陸軍及び内閣の認識を改めさせる。

 

 日露戦争前、西郷従道の推薦により47歳で就任した海相を、日露戦争終結するまでの約8年務めあげた。 山本は「ロシア海軍に勝つ」という一点を当時の海軍の目標として、そのためには「ロシア軍艦を全滅するためには、日本の軍艦も半分は沈める覚悟だ」とも公言している。

 

  *まだ若き頃の山本権兵衛ウィキペディア

 

 軍制改革の傍ら、海外留学を奨励し秋山真之広瀬武夫などの多数の青年士官を米国、英国、ロシアなどへ派遣して、優秀な若手仕官を登用する。兵站、軍港、そして外交も含めて戦争前の準備に万全を尽くした。開戦直前には東郷平八郎連合艦隊司令長官に任命するが、明治天皇に理由を尋ねられ「東郷は運の良い男でありますので」と運頼みまで行なって日露戦争に備える。

 

 日本はロシアと開戦する。権兵衛は海上権制覇のため広瀬武夫の命を犠牲としたが、バルチック艦隊が日本に来る前にロシアの旅順艦隊を壊滅させた。日英同盟によってロシアのバルチック艦隊が日本に来るまでに疲弊させた上で、日本海海戦で完全勝利を遂げる。薩英戦争から44年、権兵衛は海軍の裏方として、多くの非難や攻撃に耐えながらも、目的を達することができた。

 

 

【感想】

 司馬遼太郎が「明治維新から日露戦争までを、一町内でやったようなものである」と言わしめ、西郷隆盛大久保利通東郷平八郎大山巌らを輩出した加治屋町出身の山本権兵衛。西郷や大久保などを仰ぎながらも幕末明治の戦争に従軍して経験を積んでいく。そして明治維新後は侠客の新門辰五郎に弟子入りも考えたほどだが、西郷隆盛の導きで海軍に入門する。戊辰戦争後で荒々しい状態で、もしも権兵衛が海軍大臣だったら真っ先にリストラの対象となったほどの問題児だった。

 

  *妻、登喜子と共に(ウィキペディア

 

 一方で、品川の遊郭に売られて間もない登喜子を権兵衛が一目惚れして、カッターを漕いで連れ去って結婚するという、非常にロマンチックな行動も起こしている。そして権兵衛はその妻に誓約書を残している。登喜子は死ぬまで大切にその誓約書を取っていた。

 

1 礼儀を正ふし信義を重んじ質素を旨とすることを目的とすべき事

2 夫婦むつまじく生涯たがいに不和を生ぜざる事

3 夫婦たるの義務をやぶるにあらざればいかなる事実あるも決して離縁を許すべからず

4 家事の整頓はすべて妻の責に任ず

5 一夫一婦は国法の定むる処なれば誓ひて之に背かざる事

6 家財は以て妻子を養育するの余沢なれば妻の外他より口を入るるを許さず

7 一家に属することはすべて妻の責任にまかす

 

 明治の顕官では珍しく妾も持たず芸者遊びもせずに、そして海軍の給料も大半が余るほど質素な生活をして、愛妻家として生涯と通したという。それだけ家庭と仕事に打ち込んだということだろう。

 維新後薩摩は、西郷隆盛陸軍大将を中心に陸軍で巨大な勢力を誇っていたが、西郷の下野で多くの薩摩の高官も西郷に従い、山県有朋が後継となることで「長の陸軍」と言われることになった。ちなみに山県は奇兵隊でも「開闢総督」高杉晋作の後継として出世のきっかけを掴んでいる。

 対して海軍も、維新後まもなくは船舶が充実している薩摩が中心であった。しかし海軍の歴史が元々浅いことと、西郷従道を大臣に頂き権兵衛が友人、同僚、そして上司を構わず「容赦のない軍制改革」を行なうことによって、海軍は近代化に成功する。それは終戦後まで続き、陸軍と海軍の「社風」は、だいぶ異なることになった。

 

 

 *山本権兵衛の「生涯の」上司となった西郷従道。この人がいなかったら山本権兵衛は日の目を見ることはなかったですが、代わりに日清・日露戦争もどうなったかわからないとも言われています(ウィキペディア)。

 

 日清戦争から日露戦争へ。権兵衛は軍人というよりも政治家として、戦争に勝つための「組織作り」をできる限り行ない、日露戦争を迎える。それはペリー来航から日本に見舞われた、海洋国家としての危機感からくる様々なエネルギーを1つに集約して、まとめ上げる役割を担った。

 

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