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【あらすじ】
大隈重信は藩校で朱子学と佐賀伝統の「葉隠」の教育に反発して改革を訴える。黒船来航の時期とも重なり、老公鍋島閑叟に受け入れられて、藩教育は実学に舵を切った。同時に尊皇派の「義祭同盟」に副島種臣、江藤新平、大木喬任、島義勇、久米邦武らと参加した。大隈は蘭学から英語へと必死に修得し、そこから憲法や独立宣言などにも触れる。
長崎に留学すると、岩崎弥太郎や坂本龍馬との交流で、交易の必要性と、尊王攘夷により時代の変化を感じ取る。老公閑叟の通訳で同席した大隈は、佐賀で蒸気機関を開発して諸藩に売る目論み、また当時は世界的にも再先端の武器であるアームストロング砲を購入する姿を目の当たりにする。
大隈は所構わず閑叟に献策するも、閑叟は幕府との関係もあり踏み切れない。業を煮やした大隈は副島とともに脱藩して、将軍に大政奉還を直訴するため上洛するが、捕縛されて謹慎となる。途中土佐の後藤象二郎に考えを伝えるが、後藤はその意見を土佐藩のものとして献策して、佐賀藩が幕末に先頭を切る機会は失われた。
新政府が生まれると、大隈は長崎で外国人との訴訟の処理にあたった。隠れキリシタンの弾圧について、超大国イギリスの威光を背に、傲岸不遜な性格の公使パークスが恫喝していたが、大隈は得意の英語と論理に詭弁を交えて堂々と渡り合う。東京に移っても、不換紙幣の乱発で再度パークスからの抗議にも論破して、一定の成果を上げる。外交と財政で結果を出した大隈は、出世の階段を駆け上がっていく。
この頃大隈邸には伊藤博文や井上馨、前島密や渋沢栄一といった若手官僚が集まり「築地梁山泊」と呼ばれ、地租改正、富岡製糸場の設立、鉄道・電信の建設などを推進するが、民力休養を考える大久保利通と対立する。岩倉遣欧使節団の選に漏れた大隈は、留守政府で次々と改革を続けたが、征韓論の争いでは、留守を共に守った西郷や、佐賀藩の先輩である副島や江藤とは袂を分かつことになる。
佐賀の乱では江藤新平が反乱の首謀者とされて、晒し首という衝撃的な罪を被り、大久保への不信感が増していく。政治の実権は大久保から伊藤へと引き継がれ、大隈は薩長藩閥政治の打破を目指す。しかし伊藤や井上ら藩閥政治家から見ると、大隈の藩閥政治打倒は政府転覆運動と同義語だった。かつての盟友たちも大隈排斥に動き出し、明治14年の政変によって大隈は失脚する。
野に下った大隈は、辞職した小野梓、尾崎行雄、犬養毅らと協力し、10年後の国会開設に備え立憲改進党を結成する。漸進的な思想で民権を獲得しようとする方針は、当時過激思想で反政府運動を繰り返す自由党とは一線を画した。また「学問の独立」「学問の活用」「模範国民の造就」を謳って東京専門学校(現・早稲田大学)を開設した。
在野となった大隈も、時に知見を求められ、時に大臣に、そして2回に渡り宰相の印綬を帯びることになる。しかし藩閥政治家とは最後まで対決心を燃やし、政党政治が日本に根付く行動に徹する。最後まで好敵手だった山県有朋からの元老就任の誘いも断り、85歳で死去する。
【感想】
土佐の次は肥前。板垣退助と同じく若くからの跳ねっ返りで命知らず。「老公」に対して遠慮無く、過激な意見をポンポンと具申するのも似ている。しかし大隈重信の知識は、国学をベースに蘭学や英語を本格的に学び、法律や国家形態、技術などにも精通して、西洋人も舌を巻くほどの話術を誇った。幕末以来諸外国との談判で煮え湯を飲まされ続けた日本は、大隈重信の語学と「詭弁学」によってようやく対等に話し合えるようになる。傲岸不遜な英国公使パークスも遂には大隈を認め、長い日本公使から去る時に、特別に大隈に記念品を与えている。
また先の「自由は死なず」で「箇条書きの男」と評された江藤新平だが、本作品では大隈の兄貴分として登場し、鍋島閑叟からは大隈よりも「劇薬」と呆れさせるほどの「ゴリゴリの」人物として描かれている。幼い時からの交流だが、まるでゲンコツが雨あられに振り落ちるように論理をかざし、さすがの大隈も一目を置かざるを得ず、苦手とする様子が可笑しい。
本作品では、明治天皇から饒舌な大隈は嫌われたと明確に書いている。坂本龍馬からは「口舌の徒」と呼ばれ、若い時仲間だった伊藤博文や井上馨は政敵となり、陸奥宗光や原敬などは大隈が上司となると辞職するなどの嫌われようである。尾崎行雄も立憲改進党の設立に加わるが、後に政友会に移っている。
反面、学者の久米邦武は生涯の友となり、岩崎弥太郎や福沢諭吉との繋がりや、小野梓への思いやりなど極端な人物像が描かれている。そして鍋島閑叟は、死を前に大隈に5つの訓戒を垂れる。
- 重要な2を譲らないために、くだらない8を譲る。
- くだらないと思っても人の話は最後まで聞き、時には褒める。
- 怒気を発して高らかに弁じるな。
- 他人に功をとらせよ。
- 好き嫌いを言うな。
後年五代友厚も、言葉を変えながらも全く同じ5つの忠告をし、福沢諭吉は端的に「大隈さんは人が馬鹿に見えるのだろう」と看破する(最近、こんな政治家をよく見るようになりました・・・・)。どこかで見たデジャブ(既視感)を抱えながら読み進めたが、読了後ハタと思い出した。関ヶ原の戦いで石田三成が挙兵を長年の友大谷刑部に打ち明けたあと、大谷が三成の欠点を指摘し、将となるならば慎まなくてはならないと諭した場面。
司馬遼太郎は、大隈は西郷隆盛の偉大さが全く理解できなかったと記している。それは実務家の石田三成が徳川家康の人間を理解できなかったのと同じ。40歳で関ヶ原の戦いに敗れ刑死した三成。対して大隈は43歳で明治14年の政変で、政府転覆の罪を受け手獄死を覚悟したが生き延びることができた。そして歳を重ねるにつれて人の話を聞くようになり、晩年は人格者の存在感を世間に与え、憲政史上最高齢で総裁の印綬を帯びることになる。

*大隈重信に大きな影響を与えた「老公」鍋島直正(閑叟)。江戸期を通じて、最も英邁な藩主とも言われています(佐賀市観光協会HP)
本作品のタイトルは「威風堂々」。人生の最後に人格者としての風を帯びたことからの題名と思われるが、それまでの饒舌と暴れん坊からすると、ちょっと違和感を抱く。本来のタイトルは、ズバリ「翔ぶが如く」がふさわしい(できるわけないけど💦)。
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