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17 花ならば花咲かん(田中玄宰) 中村 彰彦(2011)

【あらすじ】

 代々家老職を襲名していた田中家の嫡男として生まれた加兵衛は、父が早く亡くなったために、祖父から薫陶を受けて成長していく。兄貴分の勝俣武蔵と行った熊撃ちで見せた胆力が認められて、家臣を雇うことを許される。また同じ家格の一瀬家の娘お由紀馬術を習っている馬場で偶然であい、相思相愛のまま添い遂げる。

 

 12歳で家督を継ぎ、使い番から始まって実直に目の前の役割を果たしていく。藩主松平容頌(かたのぶ)もその仕事振りを見て役職を上げていったが、時に淫らな席と知らずに入り込んでしまい、藩主から「お叱り」を受けることも。汚名挽回(着せられた汚名を元の状態に戻す)にと、会津藩の財政事情について調べ始めると、貨幣経済が浸透し赤字体質が定着していることがわかる。藩札の発行で一時凌ぎをするが、直ぐに金銀への交換を求められて更に悪化し、加兵衛の頃になると人口は減少に転じ、借金も57万両にまで増加していった。

 

 緊急時用として代々藩主に伝わっていた「封印金」と呼ばれる二千両が、過去に使われてしまっていたことが判明する。同じくお叱りを受けた同役とお金を捻出して、なんとか藩主に献上する。このこともあって、加兵衛は34歳で家老職に任じられた。

 

 しかし57万両の借金の対応は、そう簡単に思いつかない。その上天明の大飢饉が襲い借金は増加するばかりで、倹約だけでは何ともいかない。玄宰(はるなか)と改名した加兵衛自身も、胆石などの激痛で評定に参加できない日が重なった。断腸の思いで家老職を辞退する玄宰に対し、藩主容頌は療養を認めたが、職を去ることは許さなかった。

 

  *田中玄宰会津藩武家屋敷HP)

 

 1年半に渡る療養生活の間、玄宰は会津の殖産を考える。朝鮮人参や松茸の育成。漆器清酒など全国的な需要があるものは、味とデザインを向上させて競争力をつける改良を目指す。更には養蚕や養鯉を奨励して領内に需要を喚起し、会津藩の組織を効率良いものに変革する「寛政の改革」と呼ばれる建白署を藩主に上程する。その改革は効果を現わし、寛政の改革の「本家」松平定信は「会津の田中三郎兵衛に笑われることなかれ」と家臣を叱咤する。

 

 殖産興業に力を注ぎ借金の大半を片付ける一方、家臣の教育にも力を注ぐ。日新館と呼ばれた藩校を建てて文武両道の藩士を育てることを生涯の目標に定め、藩士の子弟を教育する組織を作りあげる。保科正之以来の尚武の家風を維持した玄宰は、最後に末期養子による減知の危機をも救って、会津を幕末まで存続させた。

 

 

 

【感想】

 会津藩保科正之に「高遠以来」付き従い、将軍家綱の補佐で保科正之が長年江戸在府せざるを得ない中、会津の藩政を仕切った名家老・田中正玄(まさはる)。当時の老中土井利勝が、尾張成瀬隼人紀州安藤帯刀とともに「天下の三家老」に上げたほどの人物。そんな人物から6代下って玄宰が生まれる。名門の血を受け継いでいる田中家には「花」が咲く土壌が備わっていた。

会津藩祖・保科正之の物語は、田中玄宰の先祖・正玄の物語でもあります。

 

 最初はほのぼのとした、江戸期における青春物語の一光景を描写している。主人公に相応しい志操堅固な性格を持ち、ちょっとしたエピソードを交えながら成長していく様子をに描いている。会津藩財政破綻は感じさせず、江戸時代の平穏な生活が描かれている。

 しかし玄宰が出世をすると、藩政に市井にと現実を目の当たりにする。対策の取り組み方は「現場主義」。記録を調べ数字を見ると、その数字の本来の意味を知るためには山に入り実際に木を数える。酒や漆器が売れないのならば、当時最先端の職人を招いて品種改良に努め、更には産業を興し民の生活を豊かにしていく。

 その殖産興業のやり方が隣国・米沢藩上杉鷹山の改革にも似ているのは、海のない同じ風土にもよるものであろうか。15万石で20万両の借金を抱えた上杉家に対し、27万石で57万両の借金を抱えた会津藩と規模は似ている。鷹山の改革は藩主がトップダウンで行い、時に反対派の弾圧が必要だったが、玄宰は藩主の支えを背景に、周囲の支援を取り付けて改革を開始することができた。

 名門家老の家から改革者がでること自体が、奇跡に近い。大半の家老職は名門に胡坐をかき、新たに養子として藩主となった蜂須賀重喜や上杉鷹山らの改革には、抵抗勢力となっていった。

 1808年、ロシアの攻撃に備えて玄宰自らの判断で樺太警備にあたり、幕府や市井から絶賛を得たが、その後間もなく亡くなる。享年61。そんな気概を持った玄宰が幕末にいたら、会津藩をどう導いたのか興味がわく。勇んで火中の栗を拾って京都守護職を拝命したか、それとも藩の存続を第一に、役目御免を最後まで主張したか。そしてその後の会津藩の苦難にどう対処したか。

 その玄宰は「我が骨は鶴ヶ城日新館の見えるところに埋めよ」との遺言を残した。日新館での教え「ならぬものはならぬものです」は、大河ドラマ「八重の桜」の初回に放映されて有名になったが、これは先祖の田中正玄が定めた田中家の家訓であり、妻お由紀が子育てをする時の口癖でもあったもの。そして日新館の教育システム「什(じゅう)」は、年長者が年下を教える体制であり、これが白虎隊の中心となる

 

 日新館(福島観光情報サイトHP)

 

 同様の組織は薩摩藩でも「郷中」がある。こちらは「二才(にせ)」と呼ばれる若者が中心となって、倒幕の原動力となった。幕末に勇躍しそして戦った2つの雄藩。但し薩摩藩の借財は500万両を超える、文字通りケタ違いの額だった。

 この巨額な借財に立ち向かう改革は、自然激しいものにならざるを得ないが、それは次の投稿で。

 

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