乙武氏がこの店で食事ができなかったことは、この話のツボではない。乙武氏も条件がそろわなければできないことがあることくらい分かっていると書いているし、それは障害の有る無しとは関係なく誰にでもあることだ。ところが、店主のほうはそれを受容できなかった。店主は予約を受けながら食事をしてもらうことができないのを、「しかたない」とは思わずに「悪いこと」だと思った。だから、その「悪いこと」を出現させたのは誰なのか、だれが悪いのかと考えた。そして、自分が犯人になりたくなくて、その役を乙武氏に割当てたのだ。事前に連絡するのが常識だ、という発言は、相手を非常識として非難するものだ。つまり「悪いのはおまえだ。おれじゃない」ということ。 そして、この話題を巡っての色々の意見も、どっちが悪いのか、というのが一番の焦点になっているみたい。でも、乙武氏をあれほどに怒らせたのは、この「どっちが悪いのか」という問題設定なんだと思う。乙武氏としては、店が対応できないなら「しかたない」としてそのまま引き下がるつもりだったのに対し、店主はその状況を「悪いもの」とみなしてその責任を乙武氏に押し付けた。
なぜ店主はこの状況を「悪いこと」とみなしたのか。それは、世間がそうみなすだろうという認識があったからではないか。実際に、どっちが悪いのかが世間の関心であるとすれば、世間はこれを「悪いこと」とみなしている、ということだ。けれども、本来これは、乙武氏と店主との間で評価が定まるべきものだ。もし店主がもっと違った対応をして、乙武氏もそれに納得すれば、乙武氏がここで食事ができなくてもこの状況は「悪いもの」とはならない。それはしかたのないことで、誰も悪くないし、そういうことは珍しくもないし、誰もが受容すべきことだ。常に理想が実現しているわけではないことくらい、誰でも知っていることだ。それなのに、店主は先回りして、来店を断るのを「悪いこと」であるとみなし、その「悪いこと」を出現させざるを得なくなったために自分が気分を悪くして、自分を被害者だ、お前が悪いのだ、と主張したのだ。
つまり、もともと存在しなかった「悪いこと」を自分で作り出して、その責任を他人に割当てている。
だから、乙武氏が怒るのは無理もない、と、私は思う。これは、障害が有るとか無いとかには全然関係ない。
何か申し訳ないなと思うような状況について、我々は耐性が無さ過ぎなんじゃないか。それは、「残念なこと」ではあるかもしれないけれど、必ずしも「悪いこと」じゃない。いろいろ検討して融通してもできないことはある。それは事実だし、だからといって誰かが悪いわけじゃない。それを誰かのせいにして安心していては、できないことはちっともできるようにならない。できないことではなくて、できるようにならないこと、そのことをこそ「悪いこと」とみなすべきなんじゃないだろうか、と思うよ。
(以下、2021-09-23追記)何か解決されるべき問題が出現したとして、その問題において「誰が悪いのか?」という問いを発した瞬間に、関係者は敵と味方に分断される。こうなると、関係者が共同して問題を解決する機運が消滅する。なぜなら、敵はともに問題解決を担う仲間ではないからだ。
本当に問題を解決したいと思うならば、まず問題を解決するのが良い。すなわち「どのように?」という問いがなされるべきだ。「誰が悪いのか?」と問うのは、もしそれが必要なら、問題が解決した後で十分に間に合う。
「誰が悪いのか?」という問いは、たぶん、どの場面においてもあまり役に立たない。誰が悪いのかは、問題の内容が吟味され、解決するための検討が十分になされれば、あえて問われなくても自ずから明らかになるだろう。だから、わざわざ、取り立てて問うまでもないのだと思う。