インターネット上で、さまざまな悪意が流れている。
ランサムウェアによる犯罪もあるし、「ネットイナゴ」による一つ一つは微小の、しかし大量の「正義の鉄槌」という悪意を浴びて命を落とす人もいる。失言や失敗をすれば、過去の経歴も含まれて叩かれるので、過剰に保守的になる人がいれば、逆に悪名は無名に勝るとして、炎上上等の人たちもいる。いずれにしても、極端な話が多く、もっと中庸なところで穏やかに暮らしたいという私にとっては、過ごし辛くなってきた。
インターネットのさまざまな技術を使って、世界を革命的に楽しいものにしたいと思っていたのに、なぜ悪意に苛まされるのか。IT系として人生を賭けてきたのは、間違いだったんじゃないのか?
そこで読んで、ちょっと初心に帰ったのが、この本だった。
最初の方に出てくる、彼の定義が面白い。
「I T (Information Technology, 情報技術)」とは機械と機械をつなぐものであり、「デジタル (Digital) とは人と人とつなぐものです」
もちろんこれは彼自身の定義であって、一般的な定義とは言い難い。しかしそれでも、「その技術によって、人はどうつながるって、どういうメリットが起きるのか?」という問いは、非常に大事なポイントだと思う。
例えば今ブームになっているChatGPT。
これは、AIと人間を、Chatという文字を中心とするインターフェースで繋がっている。
ここでいうAIは、世の中にあるテキストを大量に読み込ませて学習させたものだから、過去の人間の知を、問いかける人間とを時間を超えてつなぐ技術だ、と考えることができる。だから、広い意味で、人と人をつなげるものなんだな、とわかる。
最近ちょこちょこ話題に出てきている「スマートメーター」は、IoTでよく取り上げられる技術だ。例えば川の水位を測るが、ある一定の水位を超えると自動的にサーバーにアクセスして、サーバーが警告通知を出す。自動的に、測るから、スマート、メーター。これは、メーターという機械が、サーバーという機械とを繋いでいる。
また、AIの捉え方も面白い。
AIを「Authoritarian Intelligence (権威的知能)」とみるか、「Assistive Intelligence (補助的知能)」とみるか。
前者の場合は、権威として人を従わせるもの、後者の場合は、人と伴走して助けてくれるもの。
確かに昨今のLLM系の進化は凄まじく、意図理解や確からしい返答をしてくれる確率が上がってきた。このため、依頼すれば「正しい」答えが返っている。そしてその「正しさ」に人が仕えるようになれば、それは権威的知能になるのだろう。
前世紀のSF作家がよく書いてきた、マザーコンピュータによる人類支配、という系譜だ。
しかし、
多分、今も昔も、おそらく未来も、AIは集積されたコンピュータの中のデータと演算に過ぎないのだが、それを「使って」自分がしたいことをしたい人と、それに「傅いて」自分がやるべきことを命令してもらい人がいる。これは、AIの問題ではなく、人間の問題では?
それは、「AIに支配される人間」という恐怖を煽るネガティブな言葉でインプレゾンビをする言説を吐く人間に、洗脳されているのでは?
仮にAIが意志を持ったとして、意志を持つものに人間は支配されるというのなら、意志を持つ人間は意志を持つ他の人間に支配されてしまうのだろうか? 意志を持つという意味なら、one of them ですよねぇ?
みたいなことをつらつらと考えていたら、ちょっと脱洗脳された気がする。
極端な意見や、無意識の微小な悪意の洪水は怪物のようだが、それにさらされると、だんだん自分も怪物になってしまうのかもしれない。
オードリー・タンの意見の全てに首肯できるものではない、というか、多分何か言っていないことがあるように聞こえるのだが、それでも、別の見方を提供してもらえて、それをきっかけに自分で考えることができたのは、とても面白い読書体験だった。
本もまた、人と人をつなぐツールだね。
オードリー・タンという名前を知ったのは、彼がデジタル担当大臣として入閣し、コロナ禍の台湾でデジタルを使って検疫やマスク配布をうまくやった、という話からだ。
のちに彼が、open software の世界で世界的に有名な人だと知る。
一時期、日本でも彼の関連書籍がたくさん出て、ブームになったことがある。しかし、コロナ禍が終わっていくと同時に、忘れ去られつつあるような印象だ。