『ゲバルトの杜』を観賞してきた。
樋田毅さんの『彼は早稲田で死んだ』を原案に、1972年11月に起こった川口大三郎事件及び、事件をきっかけに激化していった学生運動内での内ゲバについて取り上げた作品。川口大三郎事件を再現した劇パート(鴻上尚史演出)と当事者たちの証言パートで構成されている。
詳しくは、公式サイトを参照していただきたい。
タイトルに「雑感」と付けた通り、とりとめのない感想を書き連ねていきたいと思う。
さて、本文に入る前に一応、お断りを述べておきたい。今回は学生運動を取り上げている作品なので、「権力と戦う」「国家に抗う」といった表現が続出するが、あくまでも作品内の人物に対する感想であり、私個人の思想とは無関係である。このブログで私個人の政治的思想を述べるつもりは一切無いので、そのつもりで読んでいただけると幸いだ。というわけで、私はどの国家にも政党にも集団にも敵対するつもりもなければ、味方するつもりもない。思想的には孤立させてほしいの。争いに巻き込まれるのやーやーなの。
ラスボスが見えてこない
内ゲバをテーマにしているから、敢えて省いたことも考えられるが、それにしても最大の敵――今風に言えばラスボスがまったく見えてこないのがあまりにも印象的だった。そもそも学生運動と言えば、反権力や反体制といったイメージが真っ先に来たりはしないだろうか。あくまでも学生運動が敵としているのは国家や資本主義社会といった、労働者階級や民衆を抑圧する大きな存在である、というような認識を私は持っている。
だが、『ゲバルトの杜』では、国家も資本家も共に存在感がない。ラスボスのはずなのに、ラスボスが全く語られない。語られるのは学生同士の血で血を洗う戦いだ。
身も蓋もない言い方をすれば、魔王討伐のため旅立ってしばらく経った勇者パーティが二つに分裂しているような状態。例えば、勇者派と賢者派でパーティが分かれちゃってるのね。で、魔王討伐どころか中ボスとの戦いも放り出して、勇者派と賢者派でお互い殺し合っているという。
本編中に劇パートを担当した若手俳優たちが、左翼史について講義した池上彰さんに対し、質問するくだりがある。そこで女性闘士を演じた琴和さんが「(世界を変えるようなことをせず)、人の膝の皿を割っていたわけですが」と口にしていたのが妙に記憶に残っている。私もちょうど似たようなことを考えていた矢先に、代弁してもらったような気分になったのだ。そんな琴和さん演じる女性闘士が劇パートで「私たちは命をかけた革命をしているのだ!」と言っていたのだが、そのときに彼女たち革マル派がやっていたのは(中核派と一方的に決めつけた)川口大三郎さんをリンチするという行為。このくだりを観ながら、過去に読んだ田原総一朗さんと中核派・清水丈夫さんの記事を思い出してしまった。
田原 地下潜行している間、何を目指して活動されてきたんですか。
清水 革命ですよ。プロレタリア革命です。
田原 革命といったって、相手は革マル派でしょ。
清水 いやいや、全然違います。
(中略)
田原 あなたたちは革マル派と手を組んで一緒に自民党をぶっ潰すべきなのに、なんで革マル派とケンカしてるんだよ。権力はありがたい限りだよね。自民党は大喜びだ。公安警察なんか大バンザイだよ。敵は革マル派じゃない。本当の敵は自民党のはずじゃないですか。
引用元:
51年間地下に潜行「中核派」84歳最高幹部が初告白「新左翼運動とは何だったか」(田原 総一朗) | 現代ビジネス | 講談社(1/4)
この記事では中核派、『ゲバルトの杜』では革マル派との違いもあるが、「勇者パーティが魔王をほっぽり出して、内部闘争に明け暮れている」という不毛さは似たり寄ったりなのではなかろうか。
学生運動の問題に言及した作品として、例えば大島渚監督の『日本の夜と霧』があり、こちらは六全協前後の武装闘争世代と60年安保闘争世代を取り上げている作品だ。登場人物の元・学生運動家たちはかつて武装闘争に明け暮れていたが、彼らのトップである共産党が平和共存路線へと舵を切ると、彼らもあっさりと武装闘争をやめ、「うたごえ運動」を始めるようになる。
だが、信念のはっきりとしない彼らでさえ、国家に対して抵抗している姿は見せているのである。というわけで、『日本の夜と霧』のことも思い出しながら「どーしてこうなっちゃったのか」という気持ちになったのだった。
『ゲバルトの杜』では川口大三郎事件を機に激化した内ゲバの結果のひとつとして、東大生・四宮俊治さんが殺された事件が紹介されている。*1事件後、四宮さんの遺稿をまとめた本が出版されたのだが、そのタイトルは『何という「無意味な死」』である。遺族の方の悲鳴が聞こえてくるようなタイトルではなかろうか。
形なきものの恐ろしさ
他の作品でも良く感じることではあるのだが、特に今回観た『ゲバルトの杜』では形なきものの恐ろしさについて感じさせられてしまった。当事者の証言パートで、内ゲバを繰り広げていた若者たちについて、「普通の子だった」と述べられている。むしろ、本来は大人しいくらいの学生が、運動に関わっているときは他者への暴力も辞さないという無慈悲な存在になる。その恐ろしさ。
学生運動期に大学で教鞭を執っていた加賀乙彦さんが、自身の経験を『悪魔のささやき』に記している。
私がずっと研究の指導をし、ついこのあいだまで「先生、先生」と慕ってくれていた教え子までが、私の胸ぐらをつかんで「このやろう!」と殴りかかってくる。かつて精神医学の初歩を教えた勉強熱心な学生も人が変わったように、「反革命の教師なんか死んじまえ」などと罵声を浴びせ、突き飛ばす。
引用元:加賀乙彦『悪魔のささやき』、集英社
この変わり様である。もともとは優しかった人ですら、大義名分のもとでは人を殴り、何なら殺すこともできる。一時期、オウム真理教関連の本を読んでいたことがあったのだが、地下鉄サリン事件などで無辜の人たちを殺した信者たちのもともとの人となりを知るごとに、人を動かす形ならぬものの力に恐れをなした。彼らは揃って、実にどこにでもいそうな普通の人であり、何なら私なんかよりよっぽど善良だった。『サリン事件死刑囚 中川智正との対話』を読んだときなど、最終的に私は中川氏に親しみを覚え、彼の死刑執行が近づくごとに恐怖を覚えてぐらいである。
もうひとつ、学生運動闘士の話で興味深いものがある。『総括せよ!さらば革命的世代』で紹介されている、1969年に大阪市立大学の教授をしていた方の話で、特に印象に残っているのが学生運動沈静化後のエピソードだ。
学生運動が沈静化した数年後、大阪市大の直木さんは電車の中で、運動のリーダーだった一人と鉢合わせしたことがある。
「先生、お久しぶりです。今は金融機関に勤めてます。あのころは愉快でしたね」
あっけらかんと語る元リーダーに対し、直木さんは「私は不愉快だったよ」と応じるしかなかったという。
引用元:産経新聞取材班「総括せよ! さらば革命的世代」、産経新聞出版
初めてこのくだりを読んだとき、「憑き物が落ちたなあ!」と感じた覚えがある(ただ、憑き物だけでなく、暴力振るった記憶まで落としちゃったらいけないと思うの)。まさに変な悪霊に取り憑かれた善良な市民が、本来の仲間だったはずの市民仲間を襲っていたものの、エクソシストの活躍によって元に戻るという。
川口大三郎事件が起こった当時、早稲田大学は革マル派の支配下に置かれており、教授たちですら手出しができなかったという。そんな中、川口大三郎事件が起こったことで、一般学生の怒りに火がつく。今まで抑圧されてきた彼らは仲間同士で団結し、革マル派に立ち向かっていく――と書くと聞こえは良いが、作中で流れていた当時の写真や映像を見て、胃が重くなった。当時の文学部自治会長(当時の自治会は革マル主導下にあった)・田中敏夫さんや村井資長総長を何百人もいるだろう学生が取り囲んでいる風景である。吊るし上げにしか見えず、もう何を応援して、何を憎めば良いのかわからなくなってきた。革マル派の暴虐に憤っていた彼らを文革の紅衛兵みたいにしたのは何なのだろう。
熱狂というものが怖いと思った。「自分たちは正しい、相手は悪だ」という共通認識を数え切れないほどの仲間と分かち合い、ひとつの塊として生きる。それを可能にする熱狂が怖い。かく言う私も、熱狂には弱い。コンサート会場で感じる一体感。アーティストを中心にして、知らない人とも思いがひとつになる高揚感からもたらされる快感。熱狂は気持ちいい。だからこそ、普段は理性を保っているつもりでも、易々と流されることになりそうで恐ろしい。
気持ち良いことは人生に必要だけれど、それに浸かってばかりもいられないのだな。賢者タイムって、よく言ったものだ。本来、性的な事柄に使われる言葉だけれど、精神的な面においても賢者タイムって必要なのかもしれない。
さて、以下は学生運動に関連付けたつもりのしょーもない自分語りなので、読まなくても大丈夫です。
*1:こちらは中核派が革マル派を襲ったという形