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リー・アイザック・チョン『ミナリ』

私たちは所有の概念からいかに逃れるべきか―旧約聖書になぞらえて語られる移民たちのドラマ

アジア系移民を狙ったヘイトクライムアメリカで多発している事は、日本のニュースでも取り上げられているからご存じの方も多いだろう。トランプ前大統領が新型コロナウイルスを「武漢ウイルス」と呼んだのをきっかけに増加したと言われているが、この様な人種間の対立を煽る犯罪に対する抗議集会も各地で行われ、先日はBTSや大阪なおみが抗議の声を挙げ話題になった。その様な状況下で、韓国系アメリカ人のリー・アイザック・チョン監督による、アメリカに暮らす韓国系移民一家の物語『ミナリ』が、ゴールデングローブ賞では外国語作品賞に、第93回アカデミー賞においては作品賞、監督賞を含む6部門でノミネートされ注目が集まっている。特に、みんな大好き『ウォーキング・デッド』でブレイクしたスティーヴン・ユアンアジア系アメリカ人俳優として初めて主演男優賞にノミネートされた事は非常に意義深い。もちろん、これをハリウッドの「政治的」な振る舞いとして捉える事も可能だろう。実際、2024年度以降のアカデミー賞では、作品賞候補の選考に一定のDiversity and Inclusionを反映させた基準が設けられる事が発表されている。この決定に対しては、賞はあくまで作品の評価によって与えられるべきで、作品の選定にアファーマティブ・アクションを導入するのは、公平な評価基準を歪める、といった批判もある様だ。ちょっと話が脇にそれるが、そもそも万人が納得する公正公平な評価などあり得ず、どの様な賞であっても様々な政治的、経済的力学が働いている。アファーマティブ・アクションの是非はさておき、賞のノミネーションは作品本位で選ぶべき、と主張する人々は、映画や文学などの価値を判断する為の絶対的な基準が存在すると信じ込んでいる様で、あまりにもナイーブな態度と言わざるを得ない。ま、それはそれとして映画の内容について語っていこう。
物語の舞台は1980年。アメリカが韓国からの移民枠を拡大した事もあり、アメリカ国内の韓国系移民は35万人まで増大し各地でコリアン・タウンが形成されていった。物語の主人公であるジェイコブ一家は当初、カリフォルニアに居住していたがそこでの暮らしに満足できず、アーカンソーに新天地を求める。映画は、家族が新居―列車の車両を改装したトレーラーハウス―に到着するところから始まるが、この移住については夫ジェイコブの強い意思が反映されたもので、妻のモニカはどちらかといえば消極的な様子だ。ニワトリのヒナの雌雄鑑別士としてそれなりの収入を得ていた夫婦はアーカンソーでも同じ仕事に就くのだが、ジェイコブの目的は別にあった。自宅の周囲に広がる広大な土地で韓国の野菜を育て、コリアン・タウンに住む人々に供給しようというのだ。これは、ヒヨコの雌雄鑑定の様な雇われ仕事とは全く意味合いが異なる。荒れた土地を耕し、種を撒き、作物を収穫する。異国の大地を所有し、そこで母国の野菜を育てる事が、アメリカという国に自らの存在を認めさせる唯一の手段だとジェイコブは考えているのだ。その意味で、彼は極めてアメリカ的な開拓者精神の持ち主であり、本作は韓国系移民の眼を通したアメリカン・ドリームの物語である、と言う事ができる。ジェイコブは、韓国への郷愁を隠そうともせず遂には母親を自宅へ呼び寄せる妻モニカに対し次第に苛立ちを募らせていく。韓国から食物を持参し、孫のデビッドには漢方薬を飲ませ、花札に興じるモニカの母スンジャも同様である。決して韓国人としてのアイデンティティを手放そうとしない彼女たちは、マッチョな開拓者精神によって自らの道を切り開こうとする有するジェイコブにとって、極めて非合理な存在なのだ。
ジェイコブが有するマチズモはひとつの恐怖心が源泉となっている。彼が働く孵化場では、雄のヒヨコは卵も生まず食肉としても利用できないので、まとめて焼却処分されてしまう。焼却炉の煙突から立ち上る煙を眺めながら、ジェイコブは「男は役に立たないと燃やされる。だから、何としても成功しなければならない」と、息子のデビッドを諭す。このシーンでは、父として、あるいは男としてジェイコブが抱えざるを得ない重圧や強迫観念の在りかが示されるが、敬虔なクリスチャンである監督のリー・アイザック・チョンは、そこに旧約聖書の物語を重ね合わせていく。映画の主人公ジェイコブが、『創世記』のヤコブであると想像する事は容易である。更に、リー監督の韓国名がチョン・イサクである事を考えれば、これはアブラハム、イサク、ヤコブと3代続くユダヤ人の物語と読み解く事も可能だろう。
子宝に恵まれなかったアブラハムとその妻サラは、神の恩寵によってイサクという息子を授かった。神はその見返りとして息子を火に捧げる事を求める。アブラハムは素直に神の言葉に従い、イサクを祭壇に寝かせて火を点じようとするが、その瞬間に神から救いの手が差し伸べられた。神はアブラハムの信仰心を試す為に息子を生贄にせよと命じたのだ。イサクは成長し、やがてエサウヤコブという2人の息子が生まれる。ヤコブは自分の子孫が偉大な民族になるという神からの啓示を受け、4人の妻との間に12人の息子をもうけたが、その息子たちがイスラエル十二部族の祖となった。
孵化場でのヒヨコの焼却が、「イサクの燔祭」の再現である事は疑うべくもない。ほとんどが生まれながらに火あぶりにされる中、種付けの役割を担わされた少数のヒヨコだけが死を免れる事ができる。イサクは、全てのユダヤ人の祖となるヤコブを生むからこそ、燔祭の贄となる運命を免れる事ができた。ジェイコブがアメリカの大地で韓国の野菜を育てる事にこだわるのは、それが『創世記』のヤコブが子孫で地を満たしたのと同じ意味を持つからだ。その時はじめて、男たちは火あぶりの恐怖から免れる事ができる。
いずれにせよ、移民たちの開拓は土地に対する「所有」の概念と切り離す事ができない。移民たちは、全財産を投げ打って、異国の土を掘り返し、種を植え、水を撒き、作物を収穫しようとする。その様な土地の所有権をめぐって、移民たちと先住者の間で激しい戦いがあった事は歴史が示すとおりである。このいかにもアメリカ的な開拓者精神と対置されているのが、モニカの母スンジャが川縁に植えたミナリ(セリ)であろう。ミナリはわざわざ畑を耕さなくとも土と水という自然の恵みさえあれば、やがて地を満たすほどに増え続けていく。それはもはや、移民第一世代が求めた開拓や土地の所有を必要とせず、環境との調和によって知らぬ間に数を増やし続けるだろう。ならば、映画のラストでスンジャの植えたセリを収穫するジェイコブは、「所有」への執着から逃れ得たのだろうか。世界各地で顕在化している移民の問題は、「所有」に基づく国家観の限界を指し示している様に思う。

 

あわせて観るならこの作品

 

  • 発売日: 2019/08/07
  • メディア: Prime Video
 

「納屋を焼く」つながり、という事で。本作の主演を務めるスティーヴン・ユアンも出演しています。以前に感想も書きました。




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