ニューストップ > IT 経済ニュース > IT総合ニュース
ReadWrite Japan
… 少なくとも娘とウェストビレッジで食事をするために道を探さなければならなくなるまでの話だ。ラップトップを使ってバルブートまでの最短経路を探し、それを記憶して外に飛び出した。しかし誰かにあった瞬間記憶は飛んでしまい、またGoogleマップで道を探すハメになった。
これまでの戦績 : 筆者 vs. 携帯デバイス 0 - 4
携帯デバイスが使えないという悪夢は目が覚めた瞬間から始まった。普段、携帯は目覚ましも兼ねている。オーウェン・トーマスのおかげで昨晩は目覚まし時計の設定の仕方を調べなければならず、もし設定が失敗していたらと考えホテルにもモーニングコールを頼んだ。そして朝の5時、その両方にたたき起こされた。
決していい気分ではない。
エクセサイズの時に音楽も聞けず、ラガーディアからアトランタまでのフライトのチェックイン、更に空港からミーティングが控えてるBuckheadへの交通もままならず、ランチの約束に遅れる連絡も出来ない。
このチャレンジでいいことが一つあったとしたら、InstagramやFacebookで知り合いが旅行を楽しんでいる様を見ずにすんだことだろう。どちらもラップトップからみることはできるが、あのアイコンや通知がなければ、チェックしようという気にならない。
しかしながら知り合いと繋がりが無くなるということは、家族とも同様に繋がりをなくすということだ。末娘への本の読み聞かせは、一週間ひたすら耐えた私を癒してくれる、愛してやまないルーチンである。それもオーウェン・トーマスとホテルのチャチなWi-Fi(これも彼のせいという事にしておこう)のせいで台無しにされてしまった。普段ならKindleの朗読をFacetime越しに聞かせてやるのだ。
代わりにKindle Cloud ReaderとSkypeを試してみたが、音質は酷いものだった。Skypeの音声が何度も途切れるのを我慢していたものの、結局諦める事になった。
この週の残りは時間が経つに連れ、ある意味で良くなり、またある意味では悪くなっていった。悪くなっていったというのは、時が経つに連れ西側諸国はモバイルありきで作られているということを嫌というほど分からされた事だ。
たとえ表を走るとか自転車に乗るといった様なシンプルな楽しみにおいても、タイムや走行距離を計測するのであれば携帯デバイスは必要になってくる。(Run/Ride nakedというムーブメントもあるが、私はこういった計測を行っている)
iPhoneが手元にあるだけでより簡単に、より便利になることは多くある。
しかしながら(ほぼ)携帯なしの生活を一週間おくったなかで、気づいたことがある。自分で考える事の大事さだ。ニック・カーがいうように、Google(もしくは携帯デバイス)は我々を馬鹿にしようとしてるのかも知れないが、ハッキリ分かることは携帯デバイスによって自分がかつてより落ち着きなく、思慮深さに欠けるようになっているという点だ。携帯デバイスを断ったこの一週間、或る種の平穏を再発見することが出来た。
携帯デバイス無しでの最初のフライトは悲惨なものだったが、4回目のフライトにもなると、一種の救いのようにも思え、待ち望むようになった。
そして、少なくとも今しばらくのところはだが、私の習慣もリセットすることが出来た。ユタまで車で帰る時、赤信号のたびにスマホをチェックする事はなくなった。
実の所、静寂を気に入った。あるアドバイスに従い、携帯デバイスの通知を全てOffにし、メールの受信もマニュアルで行うようにした。(こうすることでバッテリーの持ちも格段に良くなる)またジムなどに行く際にスマホをもって行かなくなった。
奇妙かも知れないが、実際の話だ。
もう一週間モバイル断ちをすることはないだろう。バケーションなら可能性はあるが、かなりの移動を伴う平日に行うことはない。
しかしバケーション先でも携帯デバイスを使う実用上の理由はある。道や情報を調べたり、子供が何処かに行ってしまわないよう監視したりなどだ。
ゴールは自分の人生から携帯デバイスを完全に排除することではない。あくまでバランスを取ることだ。携帯デバイスをただ要求するのではなく、それが本当に必要な時というものを理解することで、自分自身の世界に対する直観を取り戻せるのだ。
画像提供:Madeleine Weiss
Matt Asay[原文]