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山口素弘が語る「横浜フリューゲルスの思い出」
SOCCER KING
■ボランチ・山口素弘の基礎を作ったクラブ
横浜フリューゲルス。それは、「ボランチ・山口素弘」の基礎を作ったところであり、プロとしての基盤となった場所。最初は、加茂(周)監督に「お前らは、これ(サッカー)で飯を食っているんだ!」というプロの厳しさを叩きこまれた。ボランチというポジションで、自分のプレイを確立したのもフリューゲルス時代だ。
僕が大学を卒業してフリューゲルスを選んだ理由は、自分は決してトッププレイヤーではなかったから、これから伸びて行くチームで、自分も一緒に成長していきたいというのがあった。もうひとつは、加茂監督から「面白いサッカーをしたかったらうちに来い」と声を掛けてもらったというのも大きい。いったい、どんなサッカーをするんだろうと楽しみにしていた。それが"ゾーンプレス"。これまでにない考えだったし、面白かった。ただし、当然、難しさもあった。加茂監督は妥協を許さない方だから、要求は高いし、練習もきつかった。
フリューゲルスはJリーグが開幕した93年に天皇杯で優勝。94年はシーズン中に8連勝するなど、チームは確実にレベルアップしていった。95年は、加茂監督が日本代表の監督に就任したこともあって体制が変わり、いい成績を残せなかったが、この年にジーニョ、サンパイオ、エバイールのブラジルトリオが入ってきて、戦力が揃ってきた。
1ステージ制の96年は前半を首位で折り返し、通年では3位。97年の1stステージは開幕から6試合連続無失点を含む8連勝で、最終戦まで鹿島と優勝を争って2位だった。フリューゲルスはもう、いつ優勝してもおかしくないチームに成長していると感じていた。
98年、僕は日本代表としてフランスW杯に出場。そして、大会が終わった後の目標はただひとつ。フリューゲルスをJリーグで優勝させることだけだった。それだけの力をチームは持っていると考えていた。
■忘れもしない、10月28日夜の電話
そんなとき、忘れもしない10月28日の夜、アツ(三浦淳宏)から電話が入った。
「モトさん、マリノスと合併するって本当ですか?」「えっ、そんな話、知らないよ。今、初めて聞いた」
まさか、そんなことがあるとは思わなかった。そして29日の朝、新聞を見て驚いた。一面に「合併」の記事が出ていた。いつもより早く家を出てクラブハウスに向かい、途中でコンビニに寄ってスポーツ新聞を全部買いあさり、すべてに目を通したのをよく覚えている。
『横浜フリューゲルス、横浜マリノスに吸収合併』
どの新聞も同じだった。クラブハウスの駐車場には、新聞や雑誌の記者はもちろんのこと、テレビ局のレポーターが待ち受け、テレビカメラがズラッと並んでいる。急いでクラブハウスに行くと、いつものように挨拶する選手はいないし、みんなの顔が引きつっていた。
そこから、2カ月間の戦いが始まった。
寝ても覚めても、毎日が苦しかった。寝て起きたら状況が変わっているんじゃないか。合併を撤回しているんじゃないか。新しいスポンサーが現れるんじゃないか。そんなことを願う毎日。新聞を開けば「白紙撤回」という文字があるんじゃないかと、隅々まで探したこともあった。同時に、期待してはダメだとも思った。その連続。
クラブのフロントとの話し合い、全日空との話し合い。その合間に練習。練習はいつもより時間が短くなって、身が入らなかった。大勢のメディアが見ている中、選手は声が出ない。とても練習をする雰囲気じゃなかった。
チームメイト同士で削り合いに近い練習になって、言い合いになることもあった。このままじゃ誰かがケガをすると思い、僕がそれを止めに入る。そんな状況が続いていた。実際、ケガをした選手もいた。
選手だけのミーティングを、何度も開いた。
「もうJリーグも天皇杯も出ない」「そんなことをしたら永久追放になる」「じゃあ、どうしたらいい?」「J2からスタートできないのか?」
いろんな意見が出たが、前に進まない。そんな中、サポーターがフロントと朝まで話し合いをした。それを見て、選手も行動を起こそうと、選手24人、スタッフ12人の全員で横浜駅前に立って、署名活動もやった。わずか15分だったけど、千人以上の署名が集まった。テレビでも連日報道され、大きな話題になった。でも、打開策は何も出て来なかった。
■2回目の天皇杯優勝。そして移籍──
そんなとき、練習を終えて自宅に戻ってテレビを付けたら「合併調印」のニュースが流れていた。調印までいったら、普通はそこで終わり。でも、選手もスタッフも信じられなかった。いや、信じたくなかった。
そして、最後の天皇杯をむかえた。負ければそこで終わり。チーム内で「若手を使ったほうがいい」という意見が出た。当時、ヤット(遠藤保仁/現ガンバ大阪)はプロ1年目で、彼も含めた若手が、合併した後に本当に移籍できるのかという危惧があったため、若手が試合に出れば、そのプレイを見たどこかのクラブが取ってくれるかもしれないと思った。
でも、若い連中は「僕らは試合に出られなくてもいい。フリューゲルスの誇りを持って最後まで戦ってほしい」と言ってくれた。その言葉でチームがひとつになったと思う。
初戦の相手は大塚FC、次がヴァンフォーレ甲府。相手は負けて当たり前という感じでぶつかってくる。こっちは負けたら終わり。いろんな意味で全部、終わり。正直、戦いにくかったが、勝つことができた。そして、準々決勝、準決勝は当時"2強"といわれた磐田、鹿島と対戦。その強豪を破って、決勝へ進出した。
決勝の相手は93年のJリーグ開幕戦で対戦した清水。いつもと同じ気持ちだった。勝ちたい、優勝したい。それだけだった。
決勝は、先制されたが2‐1と勝ち越して逆転。試合の残り時間が少なくなってきたとき、「追いつかれたら延長になって、もう少しこのチームでプレイできるな......」そんな思いが頭をよぎった。
試合が終わっても、これでフリューゲルスはなくなるんだという実感は、正直なかった。優勝した喜びしかなかった。実感したのは、名古屋に移籍した後だった。
「いつもなら横浜に集合するのに、俺、どこに行くんだろう」って思いながら、車でひとり、東名高速を名古屋まで走った。初めてのロッカールームで新しいユニフォームに着替えて、一緒に名古屋に移籍したナラ(楢崎正剛)と顔を見合わせ「似合わへんなぁ」と笑いあった。そのとき、フリューゲルスはなくなったんだな......と。
フリューゲルスで、僕はさまざまな人と出会うことができた。加茂監督はもちろんのこと、エドゥー、サンパイオ、ナラ、アツ、前田浩二......。それに同期入団で7年間ずっと一緒だったサツ(薩川了洋)は、特別なチームメイトだ。まさか、サツが監督をやるとは思わなかったが(現JFLのFC琉球監督)、近い将来、監督として対戦するのを楽しみにしている。
フリューゲルスでやり残したことは、やはりリーグ優勝だ。自分が育ったチームが、たとえJ2に降格していても、存続していれば、いつかはリーグ優勝の瞬間を見届けることもできるかもしれないし、タイミングが合えばチームに関わることもできる。でも、なくなってしまった今では、それはもう叶わない。
今の若い世代のサッカーファンが、横浜フリューゲルスの存在をどこまで知っているのか、僕にはわからない。ただ、あの15年前の2カ月間の怒り、悔しさ、苦しさ、そして悲しみは、もう誰にも味わってほしくはない。
今でも毎年、秋が深まる10月末になると、僕は横浜フリューゲルスを思い出す――。
渡辺達也/構成
プロフィール profile山口素弘 Yamaguchi Motohiro1969年1月29日群馬県生まれ。91年に全日空サッカークラブ(横浜フリューゲルスの前身)に加入。99年に横浜フリューゲルスが消滅するまで主軸として活躍し、その後は名古屋、新潟、横浜FCでプレイ。日本代表としては1998年W杯フランス大会に出場した。2007年引退後、解説者を経て、2012年3月より横浜FC監督を務める。