■様々なポジションで起用される中で
逆境に立ち向かうことで自身を成長させてきた。各年代の日本代表に選出されてきたものの、細貝萌のサッカーキャリアはそれほど華やかではない。群馬県立前橋育英高校在籍時はトップ下で背番号10を背負い、攻撃に特化したプレーで鳴らしたが、JFA・Jリーグ特別指定選手で浦和レッズの練習に参加して自らの能力に限界を感じた。「上手い選手ばかりで、とてもじゃないけど自分が攻撃的なポジションで、プロの世界でやっていけるとは思えなかった」
2005年、当時ギド・ブッフバルトが監督を務めていた浦和への加入を決めたが、細貝のポジションは確立されていなかった。トップ下は無理。ならばユース年代の代表で起用されたボランチ?
しかし前橋育英高時代にはわがままに攻撃の中心を担っていため、自らに守備の特性があるなんて思ってもいなかった。前橋育英高の山田耕介監督はあまりにも守備をしない細貝を厳しく叱り、本人曰く「メソメソと泣いたこともある」。つまり、細貝はもともとボランチとしての経験はなく、その素養を認められていたわけでもなかった。
ブッフバルトから3バックのストッパーに起用された時は心底驚いた。これまで全く経験したことのない守備的なポジション、いや守備の要でのプレーに、彼は大いに戸惑ったのだった。攻撃的なポジションならまだしも、よりにもよってストッパーなんて……。監督は一体自分の何を評価してくれたのだろう?
だが、ここからが細貝の真骨頂だ。彼は自らのプレースタイルと与えられたポジションとの差異に苦しみながらも、新たなスキル習得に邁進する。当時の浦和は3─5─2を採用していて、バックラインで相手の攻撃を受け止めるストッパーには強靭な対人能力が求められていた。浦和で細貝とともにストッパーを務めたのが、当時日本代表DFだった坪井慶介で、リベロは田中マルクス闘莉王。この組み合わせを見れば細貝に課せられた役割も想像に難しくない。要は相手の攻撃を跳ね返す防波堤である。そこで細貝は通常のチーム練習だけでなく、全体練習後に自主的に筋力トレーニングに取り組んでフィジカル強化に努めた。それが実力のない(と本人が自覚している)選手の生きる道なのだと達観していた。
07年、浦和の指揮官がブッフバルトからホルガー・オジェックに代わると、細貝は監督からサイドバックで試される。またしても未知のポジションを与えられた本人は一層思い悩むことになるのだが、それでもサッカーへの意欲が減退することはなかった。
思い出深い出来事がある。Jリーグチャンピオンとして臨んだ中国・済南でのA3チャンピオンズカップ。浦和はリーグ戦やアジア・チャンピオンズリーグ(以下ACL)での戦いもあり、このカップ戦を控え組中心のメンバーで臨んだ。当然主力選手たちの何人かはプレーに身が入らず、浦和は計3試合を1勝2敗の成績で終えた。そんな中、レギュラーポジションを確約されていなかった細貝は優勝の可能性が閉ざされた第3戦の上海申花戦で3バックのストッパーとして先発出場したが、チームも自身も満足いくプレーをできなかった。1─3と敗れた後のミックスゾーンで、彼は苛立ちを隠さずにボソボソと言葉を絞り出した。
「主力選手が力をセーブするのは分かる。この大会はリーグ戦やACLに向けて調整の意味合いもあるから。でも、僕のように半レギュラーのような立場の選手にとってはこのようなカップ戦も大事な場なんです。そこで自分の力を発揮してチームに貢献できなかったことが悔しい。それじゃあ、いつまで経っても実績のある選手たちを追い抜くことなんてできないじゃないですか。不慣れなポジション? そんなことは言い訳にしかなりません。与えられたポジションで役目を果たせなかったら淘汰される。それはプロとして当然のこと。僕ももう、この浦和で3年目なんです。それで結果を残せなかったら終わり。常にそういう覚悟を持ってプレーしています」
おそらくプロになって以降初めて感情を発露させた細貝はその後、様々なポジションで起用されても一切弱音を吐かず順応に努めた。左サイドバックで起用された時は、右利きで足が速くない自分にどんな責務が課せられているのかを考え、それをピッチで表現する努力を重ねた。できることは限られているが、自らの力をチームに還元させる手は必ずある。スピードがなければパワーで凌駕すればいい。攻撃参加も単純なオーバーラップではなく、持ち味であるボール奪取からの素早い攻守転換を図ればチャンスに繋げられる。地味で目立たないが、その積み重ねが実績になる。彼は与えられた役割に真摯に向き合い精進を重ねることが自らの生きる道だと信じていた。
一方で、細貝は誰にも公言してこなかったある夢を抱いていた。それは「いつか海外でプレーする」こと。浦和在籍時代、細貝は他の選手たちと比べても海外サッカーへの憧憬を語らずに無関心を装っていた。唯一、イタリア代表のアンドレア・ピルロ(ユヴェントス)への憧れだけは口にしていたが、繊細でテクニカルな能力が際立つピルロのプレースタイルと、細貝の持つ無骨なイメージとの剥離に周囲の者たちは首を捻るばかりだった。
だが、高校時代までの彼を知る者ならば、ピルロと自らを重ね合わせる思考も頷ける。本来的には、細貝は強烈な攻撃志向を備える選手で、守備的なプレースタイルはあくまでもプロとして自らが目指すべき実利的なものだった。そして海外志向についても、少年時代からの夢ではあるが、立場的にはJリーグクラブ所属のプロ選手であることに誇りを持ち、軽はずみに海外と国内で差別化をしたくないという彼なりの配慮と思慮深さが、その想いを包み隠していたのかもしれない。
■ボランチもまた試行錯誤で得たポジション
前述したとおり、細貝はもともとボランチの選手ではない。一方で各年代の代表に招集された時はほとんどの監督から《ボランチ》で起用されてきた。それは同期に本田圭佑、1歳年上に梶山陽平、1つ歳下に柏木陽介、2つ年下に香川真司らの攻撃的MFが群雄割拠していたからで、細貝はチーム内の事情によって本職とは異なるポジションでのプレーを強いられ、そこで存在意義を見出さざるを得なかった事情がある。つまり元を正せば、細貝にとってはボランチもまたストッパーやサイドバックと同様に試行錯誤の中で血肉にしたポジションなのである。
浦和は09年にブンデスリーガ・フライブルクで18年間指揮を執った、ドイツ人のフォルカー・フィンケを監督に招聘する。ヨーロッパから日本に降り立った指揮官は若く将来性のある細貝をボランチに固定した。細貝にとっては浦和加入以降、初めて中盤の中央で勝負する環境を与えられたわけだ。しかし、ここでも細貝の悩みは深まる。フィンケは細貝の守備的素養、戦況把握能力の高さを見込んで4─ 1─ 2─ 3システムの中で《1》に当たるアンカーポジションを与えた。しかし実は細貝にはアンカーの経験がなかった。常にダブルボランチの一角としてプレーし、自らと周囲の個性を融合させることに腐心してきた細貝にとって、中盤の中央で一人矢面に立つアンカーもまた、未知のポジションだった。与えられた使命と責任を全うすることで得た信頼
置かれた状況を把握する。身の処し方を考える。常に訪れるルーティーンの中で、細貝は深く思い悩みながらも常にその解を求めてきた。今のドイツでも、かつての浦和でも、その雌伏を乗り越えようともがく姿勢に変わりはない。
幼少時代からの夢だった海外移籍が叶い、レヴァークーゼンへの完全移籍が決まっても苦難の道は続いた。細貝はチーム事情によって同じくブンデスリーガに所属するアウグスブルクへの期限付き移籍を宣告される。ドイツではプレー経験を積ませる目的などでバックアッププレーヤーを他クラブへ期限付き移籍させるケースはよくある。レヴァークーゼンにはドイツ代表MFなどの優秀なボランチがおり、ボランチポジションの新規登用を要するわけでもなかった。細貝は自らの境遇を認識し、当時2部のアウグスブルクでの武者修行を選択する。
しかし、ここでも細貝に与えられた役割は特殊なものだった。右サイドバックや左サイドバック。アウグスブルクのオランダ人指揮官、ヨス・ルフカイ元監督は「君にボランチの素養があることは分かっている」と本人を諭しながらも、チーム事情的に大きな懸案材料となっていたサイドバックに細貝を抜擢した。
初めての海外でのプレーで知り合いもおらず、ドイツ語もなかなか習得できない中で、彼が拠り所としたのはサッカー選手として果たすべき責任だった。チームへの献身を示すことが最終的な信頼へと繋がる。それは日本でもドイツでも、クラブでも代表でも変わらない普遍的なものなのだと、細貝はこれまで歩んできた道のりから十分に理解していた。
それでも、新しい環境への理解を深め、様々な刺激を受けながらも、細貝には彼なりの矜持があった。
「ドイツに来て驚いたことがあります。ある試合で味方のサイドバックが敵に抜かれそうだったのでカバーに入った。案の定、その味方は抜かれて自分が相手の侵入を防いだんですけど、そうしたら抜かれた選手が僕に向かって『余計なことをするな』と言うんです。『自分の役割だけこなしていろ』って。ドイツでは個人の責任が重要視されていて、一対一で負けないことが絶対条件としてある。だから自分の役割から逸脱して仲間を助けるという思考にはならない。それはドイツに来てから感じた、こっちの考え方だった。もちろんその論旨は分かるし、それがチーム強化に繋がる側面もあります。でも、僕は日本人なので、日本人としての考え、強みも出したい。率直に言いますけど、僕はドイツ的なやり方よりも、日本代表やJリーグのクラブが志向している組織的なサッカーのほうが強いと思っているし、プレーする選手たちも楽しいと思う。そもそも組織力と個人力は切り離して考えるものではなくて、両方を高めることができればチームとして一層強くなれると、僕は思うんです」
与えられた使命、責任を全うすることで信頼を得る。その上で、細貝はもう一段高い意識を備えている。自らを認めてもらった上で、自分なりの《色》を吹き込む。それが《細貝萌》というサッカープレーヤーを認識させる手立てではないのかと。
アウグスブルクではその後、念願のボランチで起用され、ブンデスリーガ在籍初年度の11─12シーズンは同リーガに所属する日本人選手では最多となるリーグ戦32試合に出場して3得点をマークした。
細貝は1部残留を死守するチームの中で確かな手応えを得て今シーズン、本来の所属先であるレヴァークーゼンへ帰還した。しかし現在は、リーグ戦3位で来シーズンのチャンピオンズリーグ出場権確保を目論むチームの中で激しいポジション争いを強いられ、時にはベンチ外を言い渡されるなど不遇をかこっている。またアルベルト・ザッケローニ監督率いる日本代表でも常時招集されながら、遠藤保仁、長谷部誠の牙城に阻まれて数少ない出場機会に甘んじている。
傍目には、細貝はわざわざ自ら荒波に身を投じているようにも見える。しかし、あえて困難に立ち向かい、それを撥ね退けてきたからこそ、今の細貝がある。それほどテクニックに秀でておらず、スピードも凡庸。唯一、フィジカル能力は際立っているが、177センチ、69キロの身体でそれを貫くには不断の努力が必須だった。現在の細貝は身体能力を維持するためにクラブ内での筋力トレーニングに加えて個人トレーナーを招き入れ、オフシーズンでも身体維持に心を配っている。
しかし、細貝の最も際立つストロングポイントは、常日頃から心の中に内包させている反骨精神だと感じる。それは昨今の世間の風潮に対する彼なりの反発的な言動からもうかがえる。
「最近、日本代表でヤットさん(遠藤保仁)の後釜なんていう論議があるじゃないですか。僕は日本代表に選ばれて、試合にも出場する機会があるからその対象にもなっているんでしょうけど、そもそも僕にヤットさんと同じ役目ができるわけないじゃないですか。僕とヤットさんのプレースタイルは全然違うんだから。ザッケローニ監督も、僕にヤットさんと同じ役割を求めているとは思わない。逆にこう思うんです。『僕にできることはある。僕にしかできないことがある』って。これまでも、これからも、僕はそう思いながらサッカーをしています」
自らを奮い立たせる。逆境に立ち向かう。成果を得る。顧みる。試行錯誤する。そしてまた、成長する。
倒れても尽きない情熱的な歩みが、《細貝萌》というサッカープレーヤーの最大の魅力だと思う。