3月30日 対
北海道日本ハムファイターズ第1回戦
1対9で、ライオンズは開幕戦を勝利で飾れず。エース
涌井秀章が、
6失点(自責点は5点)で
5回途中で降板。打線もわずか
1点しか奪えず、ファイターズの
斎藤佑樹のかませ犬に。
3月31日 対ファイターズ第2回戦
3対4で、ライオンズ連敗。
3対2で逃げ切りを図ったが、最終回、新入団でクローザーを任されている
エンリケ・ゴンザレスが
2失点。ファイターズにサヨナラ勝ちを許す。
4月1日 対ファイターズ3回戦
1対0で、ライオンズが今季初勝利。得点は
中村剛也のソロホームランによる
1点だけだったが、先発の
岸孝之が
8回途中まで無失点と好投。この日はゴンザレスも抑えたが、今思えば
エイプリル・フールだったのか。
4月4日 対
千葉ロッテマリーンズ第1回戦
0対2で、ライオンズは今季初の
完封負け。先発の
牧田和久、今季も「
持っていない男」か。もちろん、牧田は悪くは無い。悪いのは、牧田を援護しない野手陣。
4月6日 対
福岡ソフトバンクホークス第1回戦
2対4で、ライオンズ連敗。先発の
西口文也ら投手陣がホークス打線を無失点に抑えるも、またしてもゴンザレス。最終回に
4失点で、ホークスの逆手勝ちをアシスト。
4月7日 対ホークス第2回戦
2対4で、ライオンズ3連敗。エース涌井は
7回3失点と、それなりに試合を作るものの、打線はわずかに
2得点。これで今の涌井では、試合に勝てない。
4月8日 対ホークス第3回戦
5対7で、ライオンズ4連敗。5回に、
広島東洋カープから移籍した
嶋重宣にグランドスラムが飛び出し1点勝ち越したが、続く6回の守備で早くもホークスに逆転を許す。その後は、
打てない、
守れない、
勝てそうな気がしないの3拍子。野球が5回で終わるスポーツなら良かったのに。
身を切る思いで惨劇を紹介してきたが、改めて振り返ると気分が滅入る。3月30日の更新「開幕前雑記」(http://blog.livedoor.jp/yuill/archives/51657092.html)では、「
例え主力選手に怪我が相次ぎ、不調にあえぐことになっても、最後にはライオンズが1位」とは意気込んだのが、はるか遠い昔に思える。
せめてもの救いは、まだ7試合を消化したばかりということだが、
残り137試合、似たようなゲームを見ることになると、胃に穴があく。
「
ニューヨーク・メッツの試合よりも酷いものは、メッツのダブルヘッダーだ」とのコメントを残したのは、
ブルックリン・ドジャース(現ロサンゼルス・ドジャース)、
ボストン・ブレーブス(アトランタ・ブレーブス)、
ニューヨーク・ヤンキースなどで監督を勤め、1966年に殿堂入りを果たした
ケーシー・ステンゲルだ。
1962年に新興球団のメッツの監督に就任したのだが、新チームは初年、
40勝120敗。他球団のプロテクトを外れた選手を寄せ集めたチームとは言え、当時の敗戦記録を塗り替えた。
試合内容もお粗末。1塁手の
マーヴ・スロンベリーは
17個ものエラーを記録。守備率は
.981で、1981年に
ヒューストン・アストロズの
シーザー・セデーニョに並ばれるまで1塁手のワースト記録だったが、彼のエラーの中には、凡フライを額にぶつけ、そのまま担架で退場というプレーもある。(元
中日ドラゴンズの
宇野勝かよ)打撃でも、3塁打を打った際、
1塁と2塁を踏み忘れてアウトになった。
リッチー・アシュバーンはそれまで、
首位打者を
2度獲得、
シーズン最多安打を
3度記録し、
盗塁王にも輝いていたが、
メッツの一員であることを恥じ、メッツではわずか1年で引退したと言われている。
それでもメッツがニューヨーカーに愛されたのは、球団のファンサービスもさることながら、皮肉にも
チームが弱かったため。
ニューヨーク出身のコラムニストである
ジミー・ブレスリンはメッツについて、こう紹介している。
「
昨シーズン(1962年)、メッツが連敗していたころ、街中にこんな合言葉が蔓延した−『一生メッツを愛し続けるぞ』。
(中略)誰にも愛する理由があった。メッツはみんなと同じ『敗者』だからだ。うだつの上がらないタクシー運転手のためのチームであり、上司とのランチを怠ったために出世できない男のチームなのだ。朝、ベッドから起き上がり、好きでもない安月給の仕事に出かける人々のチームであり、結婚後何十年も経ち、パンツ一丁で食事をしている亭主を眺めながら、『あぁ。なぜこんな男にプロポーズされてしまったのかしら』と後悔している女性のチームなのだ。
−ヤンキース? あんなに成功している人間がどこにいる。(実業家の)ローレンス・ロックフェラーじゃあるまいし」
ニューヨーカーの多くが、人生の成功者のように見えるヤンキースに羨望のまなざしを向けつつも、来る日も来る日も負け続けるメッツに自分たちを重ね、愛着を抱いていたのだ。
なるほど、そういう意味ではホークスやファイターズは、地方ながら財を成した名士、かたやライオンズは埼玉でくすぶる田舎者・・・って、いかん。すっかり卑屈になってしまった。
ライオンズの前身、
西鉄ライオンズは1956年、
読売ジャイアンツを下し
初の日本一に輝いたが、翌1957年は開幕から、まさかの
4連敗。しかし、そこから破竹の
9連勝で、終わってみれば
2年連続の日本一を成し遂げたではないか。
埼玉西武も、負けていられん。
シーズンは開幕したばかり、
やめない雨はない、
待てば海路の日和あり、
信じるものは救われる。
まだまだ強気で行こう。でも、そろそろ勝ってね。
バックスクリーンの下で 〜For All of Baseball Supporters〜
野球は目の前のグラウンドの上だけの戦いではない。今も昔も、グラウンド内外で繰り広げられてきた。そんな野球を、ひもとく