【1207人の教え子】
コアなファンが増えた情報時代とはいえ、「櫻井富男」の名を聞いてピンとくる人は、どれほどいるだろうか。チームによっては技術や戦術面の指導に積極的な部長もいるが、櫻井はそのタイプではない。
試合中はベンチの奥に立ち、選手の動きに目を凝らし、ときおり気合の声を飛ばす。試合後はベンチ裏で手際よく選手に指示を出し、帰り支度を促す。普段は裏方に徹しながらも、何気ないやりとりの端々から温かさと実直さが伝わってくる。
創立44年を迎える金光大阪(旧・金光第一/大阪府高槻市)で、野球部顧問を43年務め、監督兼任の約3年を含めて部長として42年、66歳となった今日まで、野球部、そして選手たちを見守り続けてきた。
「コレ、見て下さい」
メガネの奥の目を細め、手にしていたのは、この春巣立っていった3年生の野球部員38名(マネージャーを含む)のうちのひとり、イラストの専門学校へ進む生徒から贈られた似顔絵だった。優しいタッチで描かれた柔らかな笑み。その作品からは、生徒の櫻井への思いが伝わってくるようだった。
これまでに送り出した教え子は、じつに1207人。大好きな野球と子どもたちに囲まれた時間は、「本当にあっという間」だったという。
櫻井の生まれは、愛知県名古屋市。両親ともに熱烈なドラゴンズファンという家庭で育ち、小学校から野球に親しんだ。中学、高校と公立校で野球を続け、高校時代は「セカンドをやったり、外野を守ったり」と、目立つ存在ではなかった。
中京大では野球は続けず、教職課程の履修を目指す一方、空き時間には母校の中学や高校で野球部の手伝いをしていた。そんな大学4年のある日、中学時代の野球部顧問から思いがけない誘いを受ける。
「今年、大阪に開校した私立高校で、来春から野球部の監督をすることになった。コーチとして一緒に来てくれないか」
教員の人気が高く、採用のハードルも厳しい時代だった。ありがたい誘いではあったが、当初は県内の中学校で保健体育の教員になることを考えていた。「試験に受からなかった場合でもよろしければ......」と伝えたうえで受験したものの、結果は不合格。もともと倍率が高く、体育志望であればなおさら厳しかった。
こうして1983年春、恩師とともに開校2年目の金光第一へ赴任することとなり、特段縁のなかった大阪での暮らしが始まった。
【横井一裕との二人三脚】
野球部指導1年目は、恩師が監督と部長を兼任し、櫻井はコーチを務めた。まだ同好会のような雰囲気が残っていたチームは、この年に日本高校野球連盟へ加盟する。
当時、PL学園の清原和博、桑田真澄の"KKコンビ"が誕生し、大阪の高校野球熱が一気に高まっていた時期でもあった。
しかしその3年間、金光第一は夏の大阪大会で初戦敗退がつづく。1勝が遠い新鋭校にとって、その熱狂はまだ別世界の出来事だった。
そして櫻井が赴任して4年目に監督が交代し、後任には日本体育大出身で、現役時代に神宮大会でMVPを獲得した経験を持つ澤井龍平が就任した。
櫻井が言う。
「大阪の公立校の島上(現・槻の木)出身で、粘り強い全員野球が持ち味。指導者も生徒も、普段の学校生活を大切にしながら野球にも全力で向き合う。そんな"金光野球"の土台をつくってくれた方です」
澤井と櫻井による新体制で臨んだ1986年夏、金光第一は柏原東を2対1で下し、夏の公式戦初勝利を挙げた。
石拾いから始めたグラウンドも徐々に整備され、選手も少しずつ揃うようになった。そんななかで「横井(一裕/現・金光大阪監督)が入ってきたんです」と櫻井は振り返る。横井は1年時から二塁のレギュラーを務め、2年夏にはチームをベスト4へと導く快進撃を見せた。
のちに金光大阪の難敵となる大阪桐蔭が、甲子園初出場の春につづいて連続出場を果たし、日本一に輝いた1991年夏のことだ。この前後、1990年の選抜で近大附、1993年の選抜では上宮が優勝を果たし、PL学園一強時代から新たな流れが生まれつつあった時代だった。
そのなかで金光も存在感を高めていくチャンスだったが、1995年春、校内人事によりチームを力強く率いてきた澤井が系列校の金光八尾へ異動。櫻井が監督を任されることとなった。
「サインの出し方から勉強しながらのスタートでしたので、しんどかったですね。客観的に見ても、自分は監督向きではなかったと思います。そこへ6月に大阪体育大の4年だった横井が教育実習で戻ってきたんです。だからすぐに『一緒にやるぞ!』と声をかけました。大学の単位もほとんど取り終えていて、野球部も引退していたので、3月まで手伝ってもらいました」
一方で櫻井は、横井について校長にこう進言していた。
「教育実習での授業を見ても、教師としての適性は間違いありませんし、人間的にも非常にしっかりしています。体育教員として本校に迎え入れれば、将来の野球部監督としても適任だと思います」
翌春から横井が非常勤講師として採用され、野球部ではコーチも務めることになった。夏の大会が終わった頃、再び櫻井が横井に言った。
「新チームから監督せぇ! オレも支えるから今から勉強や」
若干23歳の横井新監督が誕生し、ここから部長・櫻井との長きにわたるコンビが始まった。やがて校名も金光大阪へと変更され、新体制5年目の2002年、ついに初の甲子園となる選抜大会の出場を決める。
【
吉見一起を擁して初の甲子園】
2001年秋には初めて大阪大会を制し、近畿大会でも準優勝。その快進撃を支えたのが、今春開催されたWBCで侍ジャパンの投手コーチも務めた吉見一起だった。
その吉見との出会いについて、櫻井はこう振り返る。

2007年に初めて夏の大阪大会を制した金光大阪。後列右端が櫻井富男氏(写真は本人提供)
「このあたりの中学校の野球を見て回るなかで、『いいショートがいる』と聞いて訪ねたのが吉見でした。スローイングがすばらしく、ヒジの使い方も柔らかい。顧問の先生やご両親ともお話しさせていただき、『ウチはまだ新しい学校なので、しがらみにとらわれず思いきり野球ができます』とお伝えしました。ぜひ来てほしいと思っていたところ、本当に来てくれたんです」
櫻井は当初、遊撃手としての吉見に惚れ込んでいた。三遊間の深い位置から踏ん張って放つ一塁送球に目を奪われ、打力も兼ね備えている。「ショートを守ってクリーンアップを任せられる選手だったと思います」と当時の評価を口にする。
だが、いざブルペンでの投球を目の当たりにすると、この選手が進むべき道ははっきりと見えたという。
「柔らかいフォームから繰り出されるボールは、とにかくコントロールがよく、キレもある。たしか1年のまだ1学期の頃、お付き合いのある硬式クラブチームの代表の方が見に来られて、『君な、一生懸命やれば、ひょっとしたらプロに行けるかもしれんぞ』と吉見本人に声をかけたんです。それだけモノが違っていたのでしょう」
選抜では初戦で明徳義塾(高知)に敗れたものの、初の甲子園出場に学校は大いに沸き、野球部への入部志願者も大幅に増加した。以降、金光大阪は計4回の甲子園出場を果たしている。
ちなみに、2000年以降の大阪勢を見ると、大阪桐蔭、履正社の出場回数が群を抜いているが、その2校に続くのが6回出場のPL学園、そして4回の金光大阪である。
特別なスター選手が揃っているわけでもなく、寮もない。夏になると毎年100人規模の大所帯をやりくりしながら積み上げてきた成果である。
「横井も澤井監督と同じで、来る者は拒まず。入部届を持ってきたら『一緒にやろう』というスタイルなんです。そのなかでの甲子園4回出場は、自分のチームながら大したものだと思います。中田翔(元日本ハムほか)が4番でエースだった大阪桐蔭を大阪大会決勝で倒し、初めて夏の甲子園に出場した時のエース・植松(優友/元ロッテ)も、中学では軟式出身。ふつうに受験して入学し、最初はサッカーにしようか野球にしようか迷った末に野球部に入ってきた子でした。それでも、左投げで上背もあったので『もしかしたら......』と横井や当時のコーチが期待して育てていったら、あそこまで成長したんです」
いかにも金光大阪らしいエピソードだ。時代ごとの選手たちの顔が、次々と脳裏に浮かんでくるのだろう。櫻井の回想は、40年余りの歳月を行き来しながら、ゆったりと続いていった。
つづく>>