テニスラケットの『面』は、ストリング(ガット)を網のように縦横に張ることで形成される。そのストリングを張る際に、どれくらいの強度で引っ張るかで打感が変わる。一般的には、高いテンションで張ると安定感は増すが、反発力は減る。逆に低いテンションだとボールは飛びやすいが、コントロールが難しい。
ストリンガーは通常、選手たちが指定してきたとおりに張りあげる。ただ、ストリンガーの技量やクセによって、同じ数値で張っても仕上がりは多少異なる。また、仕上がりは同じでも、その日の気温や湿度によっても反発力等は変わる。
だから感覚が繊細な選手ほど、日々異なるテンションを指定してくる。それどころか試合中でも、刻一刻と変わる状況に応じてラケットを張りに出す。
テニスの試合で時折、ボールパーソンが選手からラケットを受け取り、それをコートサイドのスタッフに手渡すことがある。それは選手が、ラケットの張り替えを依頼した時。スタッフはラケットを抱え、大会会場に必ずあるストリングルームへと走るのだ。
錦織は、そのような試合中の依頼が極めて多いことで有名である。
「本当にオンコート(試合中)の張り出しが多いんですよ、圭は。だから、彼が試合をしているときは、気が休まらないです。しかも来るたびに、指定のテンションが上がったり下がったりするんですが、その傾向がわからないんですよね。上げてくるだろうなって思っていたら、また下げてくるとか。『おい、おい!』みたいなこと、よくあるんですよ」
【祈りを込めるようにガットを通した】
それら「よくある」経験のなかでも、忘れがたい試合がいくつかある。その筆頭が、2016年リオデジャネイロ五輪。準々決勝のガエル・モンフィス(フランス)との一戦だ。
2時間53分に及ぶ死闘の末に、7-6(7-4)、4-6、7-6(8-6)で錦織が勝利。最終セットのタイブレークで、モンフィスに3連続マッチポイントを握られた崖っぷちからの、奇跡的な逆転劇だった。
この歴史的熱戦が繰り広げられるその裏で、玉川氏もまた、ストリングルームで戦っていた。
「あの日は夕方に試合が始まり、しばらくして日没になった。湿度も高かったので、まあ圭にしてみれば、感覚が合わなかったんでしょうね。もうしょっぱな、アップを終えた時点でいきなりポンと、ラケット張り出しのリクエストが入りまして。まあ、そこから止まらないです。
試合を通して、オンコートリクエストが9本超え! 最終セットのタイブレークに入った時も、張ってましたもん。『これ、間に合わないよね? 何のために張ってるの?』と思いながらも、リクエストが来ている以上は、張らなきゃ仕方ないですよ。試合が終わる直前に、やっと9本目が張り終わった......みたいな」
最終セットのタイブレーク中に張っているラケットが試合で使われることは、まずあり得ない。それでも玉川氏が、祈りを込めるようにラケットにストリングを通すのは、それがある種のジンクスでもあるからだろう。
「何のために、とは思いつつも、でもそうなった時の圭は勝つんですよね」
語る顔が、うれしそうにクシャっと崩れる。
「圭から何本もリクエストが来る時は、だいたい勝つんですよ。2025年の全豪オープン1回戦、チアゴ・モンテイロ(ブラジル)との試合もそうでした。
あの時も長い試合でした。どんどんオンコートの依頼が来ていたので、なかなか合わないんだろうなと思いながら張っていたら、2セットダウン。3セット目でも相手のマッチポイントが3〜4本あって、そこからの逆転勝ちでした。ファイナルセットは、けっこうあっさり取りましたよね。そういうのは、何度も経験してるんですよ。
2019年全豪オープンでのパブロ・カレーニョ=ブスタ(スペイン)との試合(4回戦)もそうでしたね。あれも最後、試合終了のギリギリまでオンコートのリクエストが来て張ってました。『ここまで来たら、たぶん勝つな。勝ってくれ!』って思いながら張っていましたね」
【一度「最高でした!」と言わせたい】
なお、これらの激戦を終えたあとの錦織が、玉川さんにかける言葉は......「全然、合わなかったですね」。
首をひねりつつ、そうポツリと言うことがルーティン化しているという。
「もう、だから、一度でいいから『最高でした!』って言わせてみたいですね。パチッと合った時は『ああ、よかったです。それでいくと思います』みたいに言うことはあるんですが、『最高でした』はないですね。
でもまあ、それが圭のスタイルですからね。たとえば、2024年のジャパンオープン2回戦では(ジョーダン・)トンプソンに完勝だったじゃないですか。なのに、会場に来て何回か張り替えて、『うん、まったく合わないです』って(笑)。平気で言いますからね。
こちらとしては、何度も張るなかで『これ、最終的に合うんかな?』と思うんですが、完璧な試合をするでしょう? 本当に最後は自分の感性で噛み合わせるというか。そのあたりはほかの選手にはまったくない、不思議な感じですね」
何が正解なのか? 彼は何を求め、どのような世界を見ているのか──?
錦織とのやり取りとは、パズルを解くようなプロセスであり、ストリンガーとしての探求心が刺激されるのだろう。
だから「圭のラケットを張るのは、面白いんです」と、玉川氏がしみじみと言う。
「だって、たいがいの選手は、特に面白みはないですもん。決まった数値どおりに張って渡すだけの話ですし、選手自身ではなくコーチが来ることも多い。そうなると作業やルーティンという感じになるし、選手からもそこまで求められている感じがないんです。
でも圭の場合は、そこにかけてんのかっていうくらい、ものすごく真剣なわけですよ。そこにそれだけ注力してプレーに集中できるのかって、心配になるくらいです。注文も細かいんですが、でもそこが噛み合った時は、もうすごいところまで行くわけですよ。その微妙なバランスを、プレーと同時に探っている圭の感覚は、測り知れないです。
こちらとしては、傾向と対策もない。こんなに長く付き合っていても、ないです。『ああ、これ、勝つんだろうな』っていうのと、『あ、これは負けるかな』というのは、わかりますけれどね」
【聞きたい試合がいっぱいある】
長い付き合いでありながらも、まだまだ未知の存在──。だからこそ玉川氏には、いずれ錦織に直接尋ねてみたいことが山ほどあるという。
「ぜひ、聞いてみたいですね。『あの時、どうだったの?』って。聞きたい試合がいっぱいありますもん。リオ五輪の時とかも、あれだけ張らされて、張らされて、『なんで今、このタイミングで(テンションを)下げるの!?』って思ったりもしたし。
でも、それでいいんです。別に感謝の言葉を求めているわけでもないし、いろいろとありながら、こっちが勝手に『一緒に戦ってたよ』みたいな気持ちなっているだけなので。だからまあ......いつか、聞いてみようかな」
「いつか」という言葉に、ふたりの盟友的な関係性がにじむようだった。
今は、あえて尋ねる必要はない。答え合わせは、もっと先でいい──。それはきっと、ふたりの間に交わされた無言の約束なのだろう。
(つづく)
◆デイビッド・ロウ&マット・ロバーツの視点(1)>>錦織圭大好きイギリス人が語った2008年の衝撃
【profile】
玉川裕康(たまがわ・ひろやす)
1976年8月17日生まれ、鳥取県出身。鳥取大学在学中に地元テニスクラブでコーチを始め、29歳でテニスショップを開業。トーナメントストリンガーとして5度のオリンピック(北京、ロンドン、リオ、東京、パリ)をはじめ、全豪オープン、BNPパリバ・オープン(インディアンウェルズ)、上海マスターズ、ジャパンオープンなど国内外で活動。2024年に移転し、ラケットショップ「Frassino racquet works」として現在に至る。