それは逆さまの神話です。じつは、近代化が世界を病ませ、それはいまもです。これは近代哲学の裏側と言えるでしょう。
「え、どの哲学?」
これまで話してきた人文主義、合理主義、そして倫理主義です。これらは人間性をあまりにも狭く定義したせいで、多くの人々がその枠からはずれて抑圧されたんです。そして、この問題を解決しようとしたのは、ソファ哲学者ではなく、社会活動家たちでした。
「なるほど、活動家は、ソファ哲学者以上の思想家か」
26.01. 中世における自然な多様性
中世ヨーロッパでは、どの国も、王族から乞食、賢者から狂人、荒くれ者から泥棒まで、さまざまな人々がごたまぜでした。ヨーロッパにも多くのアフリカ系黒人のムーア人が住んでおり、貴族の中には彼らの子孫もいました。聖職者でさえ、酒を飲み、女性と交わり、賭博に興じることは珍しくありませんでした。人々は、酔っ払って歌い、気ままな祝祭を楽しんでいました。つまり、倫理を守るように強いる権威は無く、彼らは思い思いに生きていました。いや、そもそも彼らには倫理なんていうものがありませんでした。
「それは、かなりでたらめなエデンの園の神話みたいだ。でも、彼らにだって家族制度はあったのでしょう?」
たしかに結婚はしましたが、離婚も多く、夫や妻が勝手に家を出てしまうこともよくありました。私生児や捨て子も多くいました。家族に財産があれば、兄弟姉妹、年長も年少も、狂人や白痴であっても、すべての子供が相続を受け取り、結婚すると、夫婦の財産は新しい家族のものして統合されました。
「それが平等だな」
ローマ人や中国人にとって、家族は儀式の単位であり、最年長の男性、「家長(パテル・ファミリアス)」がその責任者でした。家族の中では、財産、家臣や奴隷だけでなく、子供たち、妻や兄弟までも、すべて家長のものでした。家族制度とは別に、ローマには市民制度があり、軍務に就いた者だけが参政権を持っていたため、当然ながら男性に限られていました。
「男だけが家族の儀式の権威なれるという考えは納得できないけど、妻や娘だけでなく、兄弟や息子も家長のものだったなら、女だけが抑圧されていたとは言えないな。それに、市民権が権利と義務の相互関係に基づいていた以上、軍務に就かない女が含まれなかったのも、仕方ないかも」
しかし、ギリシャ哲学やキリスト教がこの問題をややこしくしました。ソクラテス、プラトン、アリストテレスはみな、同性愛者の女嫌いでした。さらに、ギリシャ哲学を学び、後にイエスを神として崇拝したパウロは、イエスを個人的に知るイエスの母マリアを中心とする女性グループと対立しました。パウロは、イブのせいでアダムが堕落したという神話を引用し、東方マリア崇拝を排除しようと、女性を劣った存在として貶めました。ローマ軍と同盟してローマ・キリスト教を受け入れたゲルマン人の一つ、フランク族は、その影響で、女性相続権を制限しようとしましたが、ヨーロッパにおける女性の地位は依然として平等でした。多くの女王がいて、女性修道院長は教会内でも大きな力を持ました。
「女教皇さえいたとウワサに聞いたよ」
実際、多くの修道院は貴族が設立し、未婚の娘をその修道院長に添えていました。これは、王権や外国の略奪から財産を守るためで、そこには男女の修道士だけでなく、多くの騎士、召使、職人、農民が暮らし、貧民、病人、捨子、旅人さえ受け入れる一種の地域社会福祉施設でした。中には、森の中に一人で暮らし、村人に占いや薬草を供する風変わりな人もいました。
26.02. マチズモ的人間観
主婦は家の中をなんでも切り盛りしていました。農場で採れた資源を活用し、紡績、製粉、醸造などの小さな家内工業も営んでいました。それで、男たちが十字軍や長距離貿易遠征に送り出されました。同性愛的な騎士団を模して、都市では男たちが商業ギルドを組織し、有力貴族を巻き込みながら、世俗的な騎士道精神として地域全体にネットワークを広げていきました。マチズモに酔った男たちは、守るべき対象として貴婦人を女神のように崇拝しました。実際、彼女たちの寵愛を受けることで、彼らは特権的な商業機会を得ることができ、さらに貴族の娘と結婚できれば、莫大な富が手に入りました。
「女性相続権が悪用され始めた」
十字軍の失敗、都市の発展や疫病の蔓延、教会の衰退は、ルネサンス期の人々に大きな自由をもたらしました。しかし同時に、女は官能的であっても知性的ではないというプラトン的な女性蔑視も復活させました。カトリック教会は、信仰を強化するために、異端者を魔女として火刑に処しました。さもなければ、狂人は、牢獄やロンドンのベドラムのような特殊施設に収容されました。ローマ教皇の権威から人々を解放した酔っぱらいのルター(1483-1546)は、元修道女の妻の尻に敷かれていましたが、カルヴァン(1509-64)は、フィレンツェのサヴォナローラ(1452-98)のように、純粋な信仰を求めました。彼の信奉者たちは、仕事の成功こそが救済の証だ、と信じ、逆に、貧民や病人、主婦でさえも、カネを稼がないやつは人として劣り、神に見捨てられた者とみなしました。
「これが近代の宗教的な選民主義だ」
貨幣経済の発展は税収を増加させ、王族は、官僚制と常備軍を確立して、男女ともにもう自分で働かなくてよくなり、貴族や商人に対して、有閑階級の贅沢を誇示するようになりまし。同様に、貴族の娘と結婚した大商人たちも、貴族から資本を得て、広範囲から原材料を調達し、農村から余剰労働者を雇い入れ、工場を建設しました。しかし、都市におけるブルジョワジーの地位を確立した彼らは、王族のように、貴族の妻や娘に贅沢品を提供しなければならなりませんでした。
「それは近世の寄生的なアンシャン・レジームだな」
一般の妻や娘たちは男たちと同じように働いていましたが、彼女たちの作った製品は、せいぜいそれを売りに行く男の名前で知られる程度でした。また、多くの女性職人、女性芸術家、女性作曲家もいましたが、彼女たちの名前は記録にも残っていません。ボローニャ大学のように医学、数学、物理学の分野で活躍する女性教授を擁する大学もあったにもかかわらず、フランス学士院は、かたくなに女性の入会を拒否し続けました。たびかさなる戦争と貨幣経済の浸透は、男性人口の減少と自作農や下級貴族の没落を招きました。そのため、女性の半数は、独身で身寄りもなく、女宰や愛人、女中、労働者、あるいは娼婦として生きるしかほかありませんでした。
「男たちが世間を支配し、女を排除した。バッハの作品の中には、実際には彼の若い妻が作曲したものもあると言うよ」
26.03. 閉じ込められた人々:16〜18世紀
地方工場は家内産業を駆逐しました。農村の自作農家は衰退し、小作農や都市移住者となりました。しかし、イングランド王ヘンリー8世(1491-th1509-47)は、失業移住者たちを怠惰として鞭打って追放しました。病人と老人だけは物乞いを許されましたが、それにも免許が必要でした。アウグスブルクの富豪フッガー家は、1521年に貧窮者住宅を建てましたが、後に三十年戦争(1618-48)で軍に接収されてしまいました。
「移民はいつもやっかい問題だ」
たしかに、自分では働かない貴族やブルジョワは、多くの召使や女中を必要としていました。しかし、女は人の数に入らないかのように、彼らは、女の労働者や女中に男性と同じ賃金を支払うことはありませんでした。さらに、宗教改革によって多くの修道院が破壊され、。病人や老人など、働けない人々も都市に押し寄せました。ブルジョワは彼らを追い出そうとしましたが、うまくいかず、結局、彼らは病人や老人だけでなく貧民も収容する病院を建て、そこに彼らを押し込めました。
「ブルジョワは下層の女性を搾取して、自分たちの妻や娘、愛人にカネを費やした」
ピューリタン革命の間、ジョージ・フォックス(1624-1691)は故郷の村との繋がりを失った都市移民たちに説教を行いました。神は個々人の中にこそ宿る、と彼は教え、カトリック、プロテスタント、英国国教会など、すべての教会を批判しました。彼は冒涜者として何度も逮捕されましたが、「神の前で震えよ」と答えたため、彼の信者は「クエーカー」と呼ばれるようになりました。貨幣経済の発展に伴い、貴族やブルジョワは都市に移って邸宅を建て、都市を再開発しました。とくにロンドンは、1666年の大火の後、ほぼすべて作り直されなければなりませんでした。これらの工事は、さらに多くの移民を新都市に引き寄せ、クエーカー教徒の数も増加しましたが、彼らは迫害されました。海軍提督の息子、ウィリアム・ペン(1644-1718)は、王政復古への融資の返済として新大陸に広大な領土を獲得しましが、じつは、彼自身がクエーカー教徒であり、仲間とともにそこにペンシルベニアを建国しました。
「フォックスは移民たちの孤独を信仰の力に変えた」
オランダから招かれたウィリアム3世(1650-th89-1702)は、フランス産ブランデーを禁止し、オランダ産ジン製造を奨励しました。それは、低品質の大麦を原料とし、蒸留して針葉樹で風味付けした強い安酒で、都市部の下層の間でとても人気になりました。一方、国際戦争、産業革命、株式ブームの時代、ブルジョワジーの男たちはコーヒーハウスやフリーメイソンのロッジに集まり、活発に情報交換を行いました。彼らは、市場の常識が物事を決定する、と気づき、自分の考えではなく、他人の考えに基づいて行動しました。一方、人と違う奇矯な行動をとる者、政府に反対するリベラル派も、理性の無い狂人とみなされ、癲狂院の牢獄に閉じ込められるべきだとされました。
「ヒューム、トマス・リード、アダム・スミスもまた、常識を社会の基盤としようとしたが、彼らは理性の定義を狭め、それ以外の者を狂人として排除した」
アベ(独立聖職者)シャルル・ド・レペ(1712-1789)は、ルイ14世(1638-th43-1715)のヴェルサイユ宮殿建築家の裕福な息子だったが、パリのスラム街と豪華なヴェルサイユ宮殿との対比に心を痛めていました。しかし、彼は、スラムで耳の聞えない双子姉妹が手振りでコミュニケーションしているのを見て驚きました。彼は莫大な私財を投じて最初の無料聾学校を設立し、彼女たちの手話を体系的なものに発展させました。ルイ16世(1754-th74-92)の10カ国語通訳であったヴァランタン・アユイ(1745-1822)も、祭りでホスピスの盲人たちが道化帽子をかぶせられてからかわれているのを見て、衝撃を受けました。彼は点字の原型を発明し、レペの助言やルイ16世の支援を受けて、1785年に最初の無料盲学校を創設しました。
「都市は大きく発展したが、見捨てられた者たちが多く残されていた」
貴族やブルジョワジーの女性たちは、働く必要もなく趣味や贅沢にふけっていましたが、かならずしも幸せではありませんでした。彼女たちの人生は、裕福な夫と結婚できるかどうかにかかっていたので、男子以上に女子は宗教系の女学校で礼儀作法や教養を教え込まれました。しかし、結婚は、たんに財産相続の手段にすぎず、貴族やブルジョワジーの間では、男女ともに公然と多くの愛人を持ち、妻や夫もそれを当然のこととして受け入れていました。彼らは、愛人に惜しみなく爵位や邸宅を与えさえしました。一般庶民にとっても、妻や夫が王族やブルジョワの愛人になることは、使用人や召使の身分から抜け出して、良い生活を送るためのチャンスでした。
「ちょっとめちゃくちゃだけど、いちおう男女平等か」
いえ、そうではありません。貴族やブルジョワの男たちは、妻や愛人に別の恋人がいようと気にしませんでしたが、女性にも相続権がある以上、けして彼女たちが自分の元を離れることを許しませんでした。男たちが大金を費やした女性たちは、男たちの財産を隠し、税金を逃れるための隠し金庫であり、女性も男たちの所有物とみなされていました。彼女たちは、それぞれの邸宅に隔離され、閉じ込められていました。たとえ財産があっても、彼女たちは、それをかってに処分したり、活動に利用したりすることは許されませんでした。
「富裕層は財産を中世では修道院に隠したけど、近代では愛人の宝石に隠したのか」
26.04. 女性と革命:18世紀後半
このように、庶民の妻や独身女性労働者だけでなく、貴族やブルジョワジーの女性たちも孤立させられていました。しかし、そのことが、むしろ彼女たちをより衝動的で積極的な行動へと駆り立てました。自由を求める女性たち、とくに政略結婚を嫌うブルジョワジーの娘たちは、相続財産と拳銃を持って新大陸へ単身渡航し、自らの事業を始めました。それほど大胆ではなかった女性たちは、邸宅に私的サロンを開き、当時の知識人たちを集めました。こうしたサロンが、ひそかに革命の機運を醸成していきました。
「18世紀の男たちのマチズモに抵抗する女性たちが出てきた」
インドや中国との貿易に失敗した英国は、新大陸植民地への課税を強化しました。新大陸の主婦や女性商人たちは、英国製品のボイコット運動を起こし、「自由の娘たち」として国産品奨励に努め、彼女たちの経済活動が、アメリカ独立を現実のものとしました。同じころ、田舎町の未亡人、オランプ・ド・グージュ(1748-93)はパリで、有力者たちが集まるサロンのクルチザン(高級娼婦)になりました。彼女は、彼らの支援を受けて、黒人奴隷制に抗議する小説や戯曲を執筆し、おそらく最初の女性の人権活動家となりました。しかし、フランス植民地から利益を得ていた王族やブルジョワジーのマチズモの男たちは、彼女を恐れ、憎み、妨害しました。
「男たちの妄想の中では、女性は美しく優しくあるべきだが、同時に弱く愚かであるべきだった。でも、多くの女性がそう振る舞っていたのは、男性支配社会で生きるためだけだったのかも」
1788年、グージュは一連の政治パンフレットを出版し、有力者たちに送りました。彼女は英国風の立憲君主制を提唱しました。彼女以外にも、不満を抱えた主婦たちは当局に直接請願したり、暴動を起こしたりしました。食糧危機は1789年の革命蜂起につながり、国民議会は夏に「人権宣言」を発表しましたが、なにも解決できませんでした。秋には、マリー・アントワネットが「パンがなければケーキを食べればいい」と言ったというウワサに激怒して、7000人のパリの女性たちが、自発的にヴェルサイユ宮殿に押し寄せ、王族をパリに連行しました。しかし、男たちは女性たちの力を恐れ、女性の政治参加を拒否し、女性集会さえ禁止しました。
「女性たちは、後にル・ボンが野生の群衆と呼んだような存在だった」
マルキ・ド・コンドルセ(1743-94)とその妻ソフィー(1764-1822)は、女性解放に理解がありました。グージェは、彼らとともに「真実の友」を組織し、1791年に『女性の権利宣言』を発表し、女性の言論の自由と契約結婚の権利を主張しました。しかし、ハイチで黒人解放蜂起が勃発すると、グージェは扇動者として告発されました。さらに、フランスは反革命戦争でオーストリアとプロイセンから攻撃を受け、革命フランスは立憲君主制を共和制に転換し、王位を廃止しただけでなく、王族の処刑にまで至りました。グージェは国王を弁護しようとしましたが、かえって反発を招いただけで、権力を握ったジャコバン派は、1793年にグージェを処刑し、1794年にはマルキ・ド・コンドルセを暗殺しました。
「男が女より理性的だなんて、けっして言えない」
銀行家ネッケルの娘アンヌ・スタール(1766-1817)は、サロンの知識人で、人道主義者として、マリー・アントワネットとその友人たちの命を救うおうと尽力しました。彼女は愛人のタレーラン司教(1754-1838)を総裁政府に送り込みました。彼女は、ナポレオンの専制政治を激しく批判し、主要人物たちを結集させ、立憲君主制を求めました。しかし、タレーランは他国と共謀し、1814年に王政復古を実現させました。彼女はアヘン中毒で亡くなりました。英国では、1815年に準男爵の娘アナベラ・ミルバンク(レディ・バイロン、1792-1860)が、成功したロマン派詩人ジョージ・バイロン男爵と結婚しましたが、じつは彼は多くの女性と乱れた関係を持ち、巨額の借金を抱えており、彼女の財産だけが目的でした。アナベラはわずか1年で彼のもとを去ったため、世間からは悪女として非難されました。
「世渡り上手の男なんか、信用するもんじゃない」
26.05. 教育と中産階級:19世紀初頭
英国では早くから議会制度が確立されていましたが、下院議員の選挙権は人口のわずか3%の伝統的地主階級に限られていた。フランスでは、民衆蜂起で革命が起こったものの、新政府は高額納税者にのみ選挙権を与えました。一方、アメリカでは大土地所有者が選挙権を持っていました。いずれの国においても、多くの人々が政治から排除されていました。
「古代ローマは兵役に対して市民権を与えたが、近代国家は歴史、納税額、土地面積など、多様な基準で市民権を付与した」
革命以前から、産業革命は農村部の自給自足的な生活様式を破壊し、多くの人々を都市へと追いやりました。労働力の過剰供給は、賃金を低く抑え、貧困を生み出しました。ナポレオン戦争では、多くの男たちが農村から徴兵され、女性労働者が増加しました。しかし、戦後、復員兵たちは故郷へは戻らず、都市に留まりました。その結果、ウィーン体制下では、各国の人口の10%が首都に集中しました。低賃金と機械化は、ブルジョワジーを富ませた一方で、都市の貧困を悪化させました。男たちは、自分たちの仕事を奪っているとして、女性や機械に怒りを募らせました。
「復員兵たちはみな、女を見下すマッチョな連中だったのだろう」
ナポレオン戦争で苦境に立たされたプロイセンは、フンボルト(1767-1835)の助言に従い、兵士の質を向上させるため、1807年には早くも義務教育を導入しました。オーウェン(1771-1858)は、教育こそが貧困を緩和し生産性を向上させる鍵だ、と長年、信じており、1816年にニューラナーク工場に労働者のための学校を設立しました。コント(1798-1857)もまた、産業を通して社会を改善することを提唱し、エコール・ポリテクニークがこれを主導するテクノクラートを育成すると期待しました。しかし、近世以来、ブルジョワジーの娘たちを良妻賢母に育て、良い結婚をさせるための教育が優先されていました。米国でも、裕福な家庭の孫娘、ドロシア・ディックス(1802-87)が、ボストンの貧しい子供たちに教育を施そうと試みました。
「人々の質が社会の質を決定する」
蒸気機関や製造機械の導入により、単純労働だけではもはや十分ではなくなり、ただ資金を投資するだけのブルジョワジーでは事業を運営できなくなりました。そのため、オーウェンのような経営者や、機械の維持・操作を行う熟練労働者を雇用する必要が生じました。彼らは労働者ではあったものの、高給を得ており、新たなミドルクラスを形成しました。彼らは知性だけでなく、高い自己規律と倫理を備えており、それは懐中時計によって象徴されました。ブルジョワジーと同様に、彼らの妻たちも仕事を持たずに家事を完璧にこなし、子供たちに高等教育を受けさせることに尽力しました。
「彼らとともに、近代の理想の人間像とジェンダーの役割分担が確立された」
石炭と鉄鋼は、ブルジョワの個人的な投資規模をはるかに超えるものでした。しかし、産業革命と軍事拡大は国家にとって喫緊の課題であったため、多くのミドルクラスの男たちが官僚になりました。彼らは、画一的な生活様式を守り、人々も自分たちと同じ「理想」的な生活様式とジェンダー役割を目指すべきだ、と信じていました。彼らはブルジョワジーとミドルクラスの男性に参政権を拡大しましたが、同時に男性労働者に、標準的な労働力となることを求めました。一方、女性たちには、結婚して専業主婦となり、良い子供を産み育て、良い労働者や兵士、あるいは再び主婦となるように教育することだけを期待し、女性に公職に就く機会をけして与えませんでした。
「彼ら自身が、まるで画一的な機械部品のようで、人々にも同じであることを要求した。これは、人々に理想的な生活様式を示すだけだった東洋の朱子学徒より悪質だ」
ユーゴー(1802-85)のジャン・バルジャン、バルザック(1799-1850)のゴリオ爺さん、デュマ(1802-70)のモンテ・クリスト伯のように、男たちは下層から抜け出し、ミドルクラスに加わることを夢見ました。しかし、ディケンズ(1812-70)が『オリバー・ツイスト』(1838-39)で描いたように、現実には下層の人々の生活は悪化する一方でした。一方で、ジョルジュ・サンド(1804-76)のように、ミドルクラスの倫理観に反抗し、自由な精神で生きる女性たちも現れました。興味深いことに、ミドルクラスの倫理観は、伝統的なユダヤ人の生活様式に合致していました。キリスト教徒による根強い差別が弱まるにつれ、ユダヤ人の男たちは、懸命に勉強し、銀行家だけでなく官僚、弁護士、医師、教授といった分野でも成功を収め、一方、ユダヤ人の女たちは、家庭を守り、多くの子供を産みました。やがて彼らは経済、政治、文化における支配階級を形成するようになりました。
「ナポレオン戦争以降、ユダヤ人の国際金融に頼らずに、戦争の莫大な費用を賄うことができた国は一つもなかった」
26.06. 生活改善運動:1800年頃
それぞれに孤立しながらも、クエーカー教徒は信仰を守り続け、ペンシルベニア州への入植をフィラデルフィアから始め、アパラチア山脈を越え、五大湖地域にまで到達しました。彼らに統一教義はありませんでしたが、簡素、平和、誠実、共同体、平等、そして責任ある管理という原則(SPICES)に基づいて行動しました。彼らは、先住民である「インディアン」との和平を結び、むしろその貿易代理を請け負いました。アメリカが独立を達成すると、ペンシルベニア州は1780年に奴隷制を最初に廃止し、自由州は東西に拡大しましたが、クェーカー教徒以外は、「インディアン」を人間と認めませんでした。一方、ナポレオン(1769-th1804-ab14-21)は、革命で廃止された黒人奴隷制を1802年に復活させ、アフリカとカリブ海におけるフランスの支配を拡大しようとしました。これに対し、英国はは1807年に奴隷貿易禁止法を制定し、奴隷船を攻撃しました。
「人権は政治的な都合で左右された」
オハイオ州のテカムセ(1768-1813)は、先住民連合を組織し、英国系カナダ軍と同盟してライフルや火薬を入手し、1812年には侵略米国人に対する防衛戦争を起しました。しかし、彼らは敗北し、「平和的な」併合を受け入れるしかありませんでした。南部の五部族はやむなく白人文化に適応しましたが、にもかかわらず、黒人奴隷を使って綿花、タバコ、砂糖で富を築いていた南部の米国入植者たちは、彼らの領土への拡大を望み、米国はは1830年に一方的にインディアン強制移住法を可決しました。五部族は米国人ではなかったかかわらず、この法律によって西部の荒涼とした内陸部の代替地への移住を強いられました。この移住路は「涙の道」と呼ばれています。
「米国人にとって、それはきっと野生動物を山に追い込むようなものだったのだろう」
古代から、医師は内科医のみを指し、外科手術は汚れ仕事として軽蔑されていました。看護師はさらに、ほとんど世話をせずに高額な報酬だけは要求する、悪辣な酔っぱらいの卑しい女たちと見なされていました。村にあったカトリック修道院が衰退し、弱者さえも収容していた施設が減少するにつれ、町の低位聖職者は「ディーコン(執事)」として教区の福祉に責任を負わなければならなくなりました。一方、プロテスタントでは、この役割は会衆の中のだれかが担いました。オーウェンはニューハーモニー村(1826-28)を協同組合と相互扶助の共同体として建設しようとしましたが、わずか2年で崩壊しました。しかし、オーウェンのヒューマニズムに影響を受けた詩人バイロンの妻アナベラ・ミルバンクは、1834年にロンドン西部に協同組合の信託基金による男子校を設立しました。その目的は、生徒の人間性を育成し、自立して働き生活できる能力を身につけさせることでした。
「彼らはもはや修道院や教会に頼るのではなく、自分たち自身で問題を解決しようとした」
革命後のフランスがオランダを征服したため、英国はオランダ植民地だった南アフリカに侵攻しました。しかし、そこは複雑でした。オランダ人は黒人奴隷を使ってサトウキビ農園を経営していましたが、白人女性はヨーロッパから来ず、それで彼らは別のオランダ植民地のインドネシアからメイドを連れてきました。その結果、多くの現地住民は、アフリカーナーと呼ばれる混血になりました。彼らは英国による奴隷制廃止に反発し、奴隷を連れて内陸部へと移住しました。一方、多くの英国人が南アフリカに移住し、英国領インドから召使いや労働者を呼び寄せました。
「ここもまた、いずれ紛争の火種となるだろうな」
厳格なミドルクラスの倫理観と昇進競争は、多くの人々を大量生産の強い蒸留酒に溺れさせ、東インド会社に勤めていたミル(1806〜73年)のように、精神的破綻へと追い込みました。貧しい子供たちの教育に尽力していたドロテア・ディックスもまた精神的に落ち込み、精神医療の遅れに衝撃を受け、患者の治療改善に乗り出しました。デュッセルドルフの牧師テオドール・フリードナー(1800-64)とその妻フリーデリケ(1800-42)は、牧師と同様の専門的なディーコン(執事)の必要性を認識し、1836年、彼らは子供や老人、病人を世話する女性たちを育成するためのディーコン養成所を設立しました。
「近代の複雑な問題は、協同組合や若者教育だけでは解決できず、専門家が必要とされた」
北米入植者たちは西へ侵略を続け、先住民の「インディアン」との衝突が絶えませんでした。貧しい開拓者の息子、若きリンカーン(1809-65)は、除隊後、努力と独学によってイリノイ州で政治家、弁護士になりましたた。同じころ、ボルチモアのソフィア・オールド(1797-1880)は、夫に内緒で黒人奴隷の少年フレデリック・ダグラス(1818-95)に読み書きを教えました。しかし1831年、バージニア州で黒人預言者ナット・ターナー(1800-31)が武装蜂起を起こし、ターナーをはじめとする参加者たちが惨殺されただけでなく、多くの罪のない黒人たちまでも報復として虐殺されました。ソフィア・オールドも教えることをやめざるを得なかったが、ダグラスは独学を続けました。そして1838年、彼はプランテーションから逃亡し、奴隷解放運動家となりました。南部の綿花プランテーションは英国への輸出で莫大な利益を上げていましたが、これはインドの綿花産業を脅かすものとして英国国内で抗議運動を引き起こしました。1840年にはロンドンで世界反奴隷制大会が開催され、アナベラ・ミルバンクのような女性人道主義者たちも参加しようとしましたが、発言を許されませんでした。
「黒人解放を訴える人々が、女性や先住民を人間として認めなかったのは恐ろしい話だ」
26.07. 現実的な人道主義者たち:19世紀半ば
リンカーンの政治主張は平凡で、選挙権拡大や運河建設に重点を置き、彼の訴訟案件もおもに鉄道開発に関するものでした。しかし、彼は1841年に黒人女性の弁護を引き受けました。イリノイ州は1818年から自由州でしたが、彼女は1813年生まれで、依然として奴隷として扱われていたのです。リンカーンはこの訴訟に勝ち、少なくともイリノイ州においてはすべての人が自由である、という判例を確立しました。同じころ、ペンシルベニア州のクエーカー教徒たちは、オハイオ州、インディアナ州、イリノイ州の他の宗教団体とも協力して、「地下鉄道」を拡大していました。これは、南部アメリカ人が先住民「インディアン」から奪った新領土から、逃亡した黒人を安全なペンシルベニア州まで輸送する秘密組織でした。
「なぜ彼らは先住民インディアンを救わなかったのだろう」
オハイオ州のカルヴァン派のビジネスマン、オーウェン・ブラウン(1771-1856)は、地下鉄道で最も熱心な奴隷解放運動の「駅長」でした。彼の息子ジョン(1800-59)はペンシルベニア州で道路測量士兼郵便局長を務めており、この活動に多大な貢献をしました。イリノイ州の弁護士リンカーンも、逃亡奴隷とその匿う人々を弁護しました。メリーランドのハリエット・タブマン(1822-1913)は主人の家を脱し、みずから銃と剣で武装した「車掌」になって、逃亡者たちの移動と護衛を行いました。それで彼女は「モーゼ」と呼ばれました。フレデリック・ダグラスも1845年に自伝を出版し、多くの自由都市、さらには英国でも講演活動を行いました。人々は、彼が「黒人であるにもかかわらず」本を書き、演説をしていることに驚きました。フレデリック・ダグラスは、1847年にジョン・ブラウンにも会いましたが、ブラウンの武力による奴隷解放計画には強い反感を抱きました。
「人々にとって、ジョン・ブラウンにとっても、フレデリック・ダグラスはきっと、歌うロバのような見世物に過ぎなかったのだろう。当時ヨーロッパでは、バクーニンやマルクスも武装革命を計画していた」
衣料品店で働いていたジョージ・ウィリアムズ(1821-1905)は敬虔なキリスト教徒で、自分と同じ下層の若者たちが悪事や犯罪に走る姿を見て心を痛めていました。1844年、衣料品店経営者たちの支援を受けて、彼はさまざまな宗派のキリスト教徒仲間とともにYMCA(キリスト教青年会)を設立しました。それは、ボランティア活動やレクリエーションを通して若者の生活向上を目指しましたた。この運動はたちまち世界中に広がりました。やがて、バレーボールやバスケットボールといった若者向けの 人気ゲームが考案されました。バプテスト派の伝道師トーマス・クック(1808-92)は、禁酒運動にも取り組み、1851年のロンドン万国博覧会への団体旅行を格安の駅馬車や夜行列車で企画し、人々に酒をやめて旅行資金を貯めるように促しました。これらの企画は大成功を収め、彼はこの禁酒を伴う旅行事業を海外にも展開しました。
「人々を動かしたのは、説教ではなく、娯楽だった」
産科医も、当時はあまり高く評価されていませんでした。実際、病院での出産は、町の助産師による出産よりも妊産婦死亡率が高かったのです。ウィーン病院のハンガリー人産科医イグナツ・ゼンメルワイス(1818-65)は、病院内に「死の粒子」が存在すると疑い、消毒を行うことで1847年に妊産婦の死亡率を劇的に減少させました。しかし、医師たちは彼の仮説をオカルトだと考えました。さらに、1848年革命による反オーストリア帝国のハンガリー蜂起で、ゼンメルワイスはウィーン病院から追放されました。
「病院に死者の呪いがあるなんていう話は、科学的じゃないでしょ」
ペンシルベニアへの「地下鉄道」に対抗して、南部諸州は、1850年、逃亡奴隷を犯罪者として逮捕・送還させる逃亡奴隷法を米国政府に制定させました。オハイオ州で育ったカルヴァン派聖書学教授の妻、ハリエット・ストウ(1811-96)は、これに憤慨して、1851年に奴隷制度廃止論者の週刊新聞に、感傷的ながら壮大なエンターテイメントの連載小説『アンクル・トムの小屋』を連載しました。敬虔なトム、闘志あふれるジョージ、そして我が子を救い出すイライザという三人の黒人奴隷を中心とした物語で、イエス、モーセ、マリアといった聖書のモチーフが随所に散りばめられていました。1852年に書籍化されると、飛ぶように売れました。当時普及し始めていた公共図書館のおかげで、読者数は何倍にも膨れ上がりました。ヨーロッパでも、ディケンズ、ジョルジュ・サンド、ハイネ、トルストイといった著名な作家たちがこぞってこの作品を称賛しました。しかし、南部は、アブラハム、ノア、パウロを引用して、聖書は奴隷制度を支持している、と反論しました。
「デュマがすでに大衆向け新聞連載小説を確立していた。彼女はこの形式をプロパガンダにうまく使った」
同じころ、英国の貴族の出で高い教育を受けたフローレンス・ナイチンゲール(1820-1910)は、看護師を志し、1851年にデュッセルドルフのフリードナー・ディーコン学校で最新の衛生学と患者看護について学びました。1853年、彼女はロンドンの女宰(ガヴァネス)養老院の経営難を立て直すよう依頼されました。彼女の母親は、女性が働くこと、まして「汚い」看護師として働くことに猛反対しましたが、父親は惜しみなく自分の資金を投じて彼女の活動を支援しました。
「没落貴族の娘たちは結婚できず、新興ブルジョワジーの家の女宰になったとか。でも、彼女たちは、引退後、財産も無く、住む場所も無くなってしまった」
(後半に続く)
純丘曜彰(すみおかてるあき)大阪芸術大学教授(哲学)/美術博士(東京藝術大学)、東京大学卒(インター&文学部哲学科)、元ドイツマインツ大学客員教授(メディア学)、元東海大学総合経営学部准教授、元テレビ朝日報道局ブレーン。