同曲の予告動画の歌詞テロップで、“歓声”が「観声」と、“縁”が「緑」と誤表記されていたり、野球のテーマソングなのに「外野」という言葉を
ネガティブな意味で使っていたりすることに批判の声があがったのです。(誤字は修正済)
バンド側のリアクションもお粗末でした。リーダーでドラムのなおとが5月23日に自身のXに投稿した「誤字してしまったこと、本当にメンバーで気付けなかったのはダメだと思ってます。かなり多方向に失礼なことをしてしまいました。」という
謝罪文の稚拙さを指摘する声が相次いだのです。
間違いは誰にでもあることですし、その後すぐに修正をして、至らない点を認めたことはよかったと思います。
◆そもそも曲がプロの水準に達しているのか
しかし、仮に誤字がなかったとしても、この曲がプロフェッショナルの水準に達しているかを問われたら、答えづらいところです。そもそもなぜこういうバンドが簡単にデビューできてしまうのか。
「ねぐせ。」のメンバーは
アイドル的なルックスでフォトジェニックです。曲調も激しすぎない
ギターロックで、とっつきやすいポップさがある。単純に売れそうです。
けれども、それはあくまでも表面、外皮が整っているに過ぎず、ボキャブラリー、韻の踏み方、メロディセンス、コードワーク、アンサンブル、アレンジメント。いずれも目を引く要素はありません。
ラップのような節回しで<前を見てる君に世間の外野なんて聞こえない 聞こえるのは歓声日々に送る宣誓 時に我慢反省 だから今が完成 かなり辛い汗と風に載せて送るファンファーレ>と歌ってから、“Wow Wow”のコーラスが続く構成は手垢がついた手法です。
これをパロディやパスティーシュではなく、大真面目にやっている時点で先行作品に対する視点が欠けている。過去に対する畏れがないのですね。あえて無知なフリをしているのではなく、本当に丸腰のまま音楽をやっている。不用意な人たちがプロになってしまっているのです。
◆「音楽の質は上がらず、数だけが増えた」現状
ビジュアルやキャラの先行が悪いと言っているのではありません。けれども、そこに中身をつめこむ作業がおろそかになっている。これは「ねぐせ。」そのものよりも、日本の音楽産業自体に関わる問題なのかもしれません。
こうした状況を危惧していたのが、昭和の大作曲家、浜口庫之助(1917-1990 代表曲に「愛して愛して愛しちゃったのよ」、「星のフラメンコ」、「夜霧よ今夜も有難う」、「
人生いろいろ」など)です。自伝的エッセイ『ハマクラの音楽いろいろ』(立東舎文庫 2016年 オリジナルは1991年朝日新聞社出版)の中で、“音楽産業が大きくなり、裾野は広がったけれども、だからといって頂点が高くなったわけではない”と書いているのです。
売上は増えてより身近にはなったけれども、音楽の質は上がらず、数だけが増えた。本物のプロフェッショナルは絶滅の危機に瀕して、粗製乱造になってしまった、と言っているのですね。
90年代のCDバブルほどではありませんが、いまも日本のマーケットは世界2位の規模を誇ります。新曲、新人アーティストのデビューは途切れることなく、最近では音楽番組の復権なんて声も聞かれます。
しかしながら、そこから5年後でも覚えていられるような曲はいくつ生まれたのか。それは3週間ごとに入れ替わる駅ビルのスイーツ店のポップアップみたいなものになっていないだろうか。