「出産後の妻を女として見れない」でも“あるコト”がきっかけで妻への気持ちが復活し…
-
コインに表と裏があるように、人は或るとき突然、“もう1人の自分”に出会うことがある。
それは思わぬ窮地に立たされたときだったり、あるいは幸せの絶頂にいるときかも知れない。
......そして大抵、“彼ら”は人を蛇の道に誘うのだ。
▶前回:Amazonプライムのおすすめ動画を見て、30歳男がふと思い出した元カノ。思わずLINEしたら…
Vol.14 稔(32歳)の場合
「稔さんって、恋人っているんですかぁ?」
カウンター越しから、猫なで声で話しかけられた。
女は僕の作ったカクテルを飲みながら、これ見よがしに胸の谷間を強調している。
初対面にしては馴れ馴れしいが、バーテンダーという職業柄、そんな女性の扱いにも慣れていた。
「妻と子どもがいます」
笑顔でサラリと伝えると、女はさらに僕に興味を持ったようだった。既婚者だと知ってさらに燃え上がるのは、見た目に自信がある女に多い。
僕は5年前、オーナー兼バーテンダーとして、六本木にこのバーをオープンした。近くにカラオケやダーツができる店を、3店舗ほど経営している。
薄暗い店内のオールド・バカラのグラスも、ピエール・ジャンヌレの椅子も、数百万円はくだらない現代作家の絵画も、彼女の目には入っていないだろう。
「小栗旬に似てるってよく言われませんかぁ?私大好きなんです」
バカな美人は嫌いじゃない。口説けば尻尾を振って喜び、あと腐れなく満たされる。
妻を含め、今まで関係を持った客の人数を数えればキリがなかった。
バーテンダーとして、男として、女性から魅力的に映らなければ存在意義がないようにさえ感じている。
その時ラストオーダーの時間はとっくに過ぎていたので、ドアベルが鳴ったことに僕は気がついていなかった。「悪いが、1杯いいかな」
「申し訳ありません、ラストオーダーの時間が過ぎて…」
僕はそう言いかけたが、男の顔を見て、席に案内した。
「石田さんが店に来るなんて、珍しいですね」
名残惜しそうにしていた女を帰らせてから、男にウイスキーをロックで差し出す。
僕よりも1歳上の石田は、有名な投資家でメディアにもよく登場する。
いつも全身プラダの服をまとい、さらにジムで鍛え上げた肉体もあいまって、全身から自信がみなぎっているような男だ。
しかし、今日の彼は憔悴しきっていたので、一瞬誰が来たのか気がつかなかった。
石田は酒を一気に飲み干し、僕に静かに告げた。
「悪いが、この店の営業を続けることは難しい」
「えっ…」
僕はグラスを持ったまま固まってしまった。
3店舗の経営はコロナ禍で赤字続き。それでも東京の一等地で営業を続けられた理由、それは紛れもなくこの男の後ろ盾があるからだ。
赤字の店を閉める理由はもちろんあるが、そもそもこの男との間には約束があった。
「税金対策の店だから、多少の赤字でも君の好きに営業していい」
石田はそういって女性の顧客が多かった僕を気に入り、店を任せたいと言ったのだった。
資金力がなかった僕は、提示された給料の額面を見つめ、リスクなく好きに経営できるという、甘く美味しい条件を飲んだのだ。
「なんで、今更…」
そしてその翌日。ネットニュースで石田の会社の詐欺疑惑を知る。
あれよあれよと逮捕に至るニュースを見るのは、まるで早送りの映像を見ているかのようだった。
◆
妻の美香子は5歳下の、元読者モデルだ。
この数日間、珍しく早く家に帰ってくる僕に、何も問い詰めることをしなかった彼女には内心助けられていた。
美香子と結婚した理由は、予想外に子どもを授かったからというだけではない。読書が趣味という彼女は、大人しい性格で、男性の1歩後ろを歩くようなタイプだ。
だから何があっても、僕のそばから離れないだろうという気がしたのだ。
もうすぐ2歳になる息子が生まれた時は、絶対に妻と子どもを幸せにすると心に誓ったものだったが…。
それが産後の体型変化や、髪をボサボサに振り乱す姿を見ていつの間にか女性として見ることができなくなっていた。
でも、どうだろう。
久々に向かい合ってみると、育児に疲れてこけた頬でさえ、愛おしく見えた。
ここ数日あった出来事を正直に話すと、彼女は聖母のような微笑みを浮かべて僕に言った。
「大丈夫よ」
その言葉に、父親が死んだ時にさえ流れなかった涙が込み上げてきて、この数年、自分がいかに調子に乗っていたか思い知らされる。
「美香子…悪かった」
そっと手をとり抱きしめる。しかし、彼女は冷たい声色で僕にささやいた。
「離して。もうとっくに、あなたには何も期待してないから」
彼女は静かに僕の手を振り払うと、息子が眠る部屋に消えていった。詐欺師がオーナーであることが明るみになったこの店には、もはや誰も近づこうとせず、案の定、売却先も見つからなかった。
そして、ひっそりと最後の営業を終えようとしている。
「素敵なお店ですね」
その時ドアベルが鳴り、1人の女性が店に入って来たのだ。
女性の顔を見て、一瞬僕は言葉を失う。
― 母さん…?
そんなはずはない。声も背丈も違う。
でもそこには、中学生の時に僕と父親を捨てて若い男と逃げた、美しい母親そっくりの女性が立っていたのだ。
「ありがとうございます。今日が最後の営業なのですが」
「あら、こんなに素敵なお店なのに…」
他人の空似とはいえ、平常心を保つことに苦労した。
「苦労されたのね」
リカと名乗ったその女に初めて会った気がせず、なぜか僕は彼女に洗いざらい自分自身のことを話していた。
“真実”というカクテル言葉を持つスプリッツァーを、彼女がオーダーしたからだろうか。
「じゃあ、私と一緒に、誰も知らない土地でやり直しましょうよ」
もしもこんな状況でなければ、ミステリアス小説のような、現実感の薄い彼女の提案を飲まなかっただろうか?
それは分からない。
◆
― 数ヶ月後。
僕らは、海の見えるマンションの一室で2人で暮らしている。
彼女が好きなスプリッツァーを作り、手渡す。
リカの手入れのされた黒髪も、エキゾチックな顔立ちも、僕の記憶にある母にそっくりだった。
美香子との結婚生活で安定を望んだ理由や、不特定多数の女性から求められることで安心していたのは、母親を失ったコンプレックスからだということを自覚する。
リカに対する気持ちは歪んだ愛情だとわかっていても、僕は今幸せだ。
彼女に甘えることで、本当の自分が解放されるようだった。
「お母さん…」
だから、つい酔った勢いで、リカに寄りかかりながら呟いてしまったのだ。
「ごめん、違うんだ。リカといると安心するというか…」
慌ててごまかそうとする僕に、リカは言った。
「いいのよ。あなたが、私をあなたの母親と重ねていることを知っているから」
僕がゴクリと唾を飲んだ音が、室内に響いた気がした。
「あなたのことは何でも知っているわ」
そして、リカのこの声を突然思い出したのだ。
僕がバーテンダーを始めたばかりの、銀座のバーでの出来事だった。
客にストーカーまがいのことをされて、警察沙汰になる前に当時のマスターが出禁にした女がいる。その「リカさん」の声だ。
思い出すだけで、背筋が凍るような不細工な女だったことを覚えている。
その当時、一人暮らしをしていた部屋に誰かが入った形跡があった。
そうだ。その頃、なくしたと思った母の写真に、リカはそっくりだ…。
「私たち、ずっと、こうなる運命だったのよ。愛してるわ…」
その顔は、やはり母に似て、美しく歪んでいた。
彼女の中に隠れていた本当の姿が露わになって、弄るように、僕の服を脱がしていく。
そして、波の音に、僕の停止した思考はかき消されていった。
▶前回:Amazonプライムのおすすめ動画を見て、30歳男がふと思い出した元カノ。思わずLINEしたら…
▶1話目はこちら:夫が冷たい、子どもも産めない…。結婚生活に絶望した貞淑妻の恐ろしい二面性
▶︎NEXT:2月22日 水曜掲載予定
すべてを諦めていた美香子。夫がいなくなったことで初めて知る感情とは…-
© livedoor
