98年のフランスW杯後、サッカー専門誌の編集者を辞めてフリーランスになった。
W杯のような国際大会の取材では、プライオリティがある。通信社、全国紙、スポーツ紙、地方紙、サッカー専門誌、スポーツ誌、一般誌ときて、一番最後がフリーランスだ。当然のことながら、取材パスの割り当て枚数は少なくなる。
98年のフランスW杯では、取材を希望したフリーの記者全員にパスが行き渡らなかった。FIFA(国際サッカー連盟)からの割り当て枚数に限りがある以上、こればかりはしかたがない。
2002年の日韓W杯は、そのフリーランスで取材パスを取得することになる。どうなることかと思ったが、自国開催で取材パスの割り当て総数が多く、無事に取得することができた。これについては、日本サッカー協会の働きかけが大きかった。
大会そのものについては、あまり良く覚えていない。記憶の棚が追いつかなかった、と言ったほうがいいだろうか。日本代表の試合をはじめとして、あまりにも多くのことが起こり過ぎて、自分の処理能力を完全に超えてしまっていた気がする。
だから、横浜での決勝戦が終わったあとは、深い安ど感に包まれた。これでもう、取材に行かなくていいんだ。移動しなくていいんだ──そんなことを思った記憶がある。
日韓W杯はいい大会だった思う。そのうえで言うと、W杯という非日常が、自分にとっての日常で行なわれていることに、戸惑いのようなものがあったのは事実だ。最寄り駅から電車に乗ってW杯の取材へ行くことに、最後まで馴染めなかった。
だからではないが、06年のドイツW杯は楽しかった。先輩が借りたアパートの一部屋を使わせてもらい、そこから試合会場へ出掛けていった。日帰りで帰ってくることが多かったが、数日間の移動もあった。
取材は大変だった。スタジアムの記者席は当該2か国が最優先され、同じ大陸、今後対戦する国、などの順番で割り当てられていく。準々決勝にはヨーロッパの6か国に加え、ブラジルとアルゼンチンの南米2強が勝ち残っていた。強国は取材する記者が多く、当該国のボリュームが大きくなる。準々決勝のドイツ対アルゼンチンの取材を希望したのだが、優先順位が低いアジアの国の、そのなかでも優先順位がもっとも低いフリーランスの記者に、このビッグマッチの取材許可が下りるはずはなかった。
記者席の割り当てには、ウェイティングリストというものがある。取材を予定した記者が来なかった場合、余ったチケットが希望者に配布されるのだ。しかし、これもあっけなく落選した。
準々決勝で入れないのだから、この先はもうダメだろう、と諦めた。ところが、ドイツ対イタリアの準決勝も、イタリア対フランスの決勝戦も、申請が通って記者席に座ることができた。負けた国の記者が帰国した影響もあったのだろう。「当該国ではないフリーランス」でも、決勝戦は意外なほど入れることに、その後も気づかされるのだ。(以下、次回へ続く)