そう尋ねると、かつての甲子園のヒーローは柔らかい表情を浮かべて言った。
「はい、幸せです。仕事にやりがいを感じていますし、また野球をやっていた時は、常にコンディションを保たなければいけなかったので、休みが休みではないような感覚で日々を過ごしていました。今は、ちょうど2歳になる子ども(男子)がいるんですけど、休日はしっかりと休んで家族との時間を過ごすことに、幸福感を感じています」
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現在はJR東日本の駅員として働く吉永健太朗さん(写真=JR東日本提供) ※撮影時のみマスクを外しています
2011年の夏、日大三高のエースとして甲子園を制した吉永健太朗さん。「魔球」と呼ばれたシンカーを武器に勝ち上がっていったその姿は、甲子園の歴史のなかでも忘れられないビッグインパクトだった。
吉永さんは2019年末に現役を引退。現在は、所属していたJR東日本の社員として、東京都内のターミナル駅で勤務している。
「みどりの窓口での業務を主に担当していて、お客さまへの切符や定期券を発行・払い戻しの対応などをしています。お客さまと直接ふれあえる職場ですし、感謝の気持ちを伝えていただいたりすると、本当にやりがいを感じますね。あと社内業務を始めて2年目ではあるものの、社歴は6年になるので後進の育成もし始めたところです」
接客業務がメインとなるが、選手時代に培ったことはなにか役に立っているのだろうか。
「勤務体系が早朝や深夜に及ぶことが多いので、まずは野球で鍛えた体力的な面はプラスに働いていると思います。あと野球はコミュニケーション能力が非常に重要になってくるスポーツなので、そこは接客業務に通ずるところはありますね」
よどみなく整然と語る吉永さんはさわやかで、まるで絵に描いたようなJRマンである。今でも野球を観たりするのだろうか。
「子どもが小さいこともあり、テレビを観たり、情報をキャッチすることは十分にはできてはいないのですが、それでも現役でやっている仲間や同期の活躍はすごく楽しみにしています」
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日大三高のエースとして2011年夏の甲子園優勝を果たした吉永さん
代名詞・シンカーの誕生秘話
東京都日野市出身、野球を始めたのは小学4年の時。両親は実業団でバドミントンをプレーしていたスポーツ一家。父親が吉永さんの肩の強さに気がつき、好きだった野球を勧めたという。中学時代はピッチャー兼野手として調布リトルシニアに所属し、その後、日大三高に進学した。
「三高時代、忘れられない思い出は?」と尋ねると、まず甲子園での優勝よりも、高校1年の時に経験した三高名物「冬の強化合宿」を挙げた。
「噂には聞いていましたが、かなりきつくて精神的にも追い込まれました。ただマックス130キロくらいだったストレートが、合宿を終えたあとの公式戦で143キロになっていたんです。一気に成長できたという実感もあり、冬合宿はすごく強く心に残っていますね」
また吉永さんといえば、前述した代名詞であるシンカーがあるが、投げるきっかけとなったのは2学年先輩の関谷亮太さん(元ロッテ)の影響だった。
「もともと変化球はカーブとスライダーしかなく、チェンジアップやシュートといった逆に曲がる変化球がほしいなと思っていた時に、先輩が投げているのを見て、見よう見まねで投げ始めたんです。(関谷)先輩がいなかったらシンカーという選択はなかったと思います。ただ1年の秋から取り組んだので、夏に引退してしまった先輩から手ほどきを受けたことはあまりなくて、自分で模索しながら習得していった感じですね」
独学ゆえのことなのか、吉永さんのシンカーはおもしろい軌道を描いた。
浮いて、反れて、落ちるーー。
球速は120キロ前後、カーブのように浮き上がり、またチェンジアップのように抜けて落ちる不思議なボールだった。
「最初は右斜め下に曲げたいという感覚だったのですが、最初はキャッチャーに届かなくて高めに投げるようにしたり、また意図して抜けるようにしたわけでもなく、投げながらキャッチャーやバッターに感想を聞きながらつくり上げていった感じなんです。左バッターに有効になればいいなという程度でしたが、結果的に"これがなければ"というボールになりました」
「三高の吉永」がヒーローになった日
2年の秋からエースとなり、第41回明治神宮野球大会でチームを優勝に導き、3年になると春のセンバツ大会ではベスト4に進出、そして満を持して、夏の甲子園へと挑んだ。
「じつは甲子園よりも東京予選決勝の早実戦のほうが記憶に残っているんです。勝たなければいけない空気のなか、接戦になりプレッシャーを感じたのを覚えています。ここで勝てるか勝てないかで、僕はもちろん仲間たちの人生も左右すると思ったので、あれは忘れようにも忘れられない経験になりました。だから逆に甲子園はプレッシャーから解放された感覚があったんです。ただ、調子がよすぎた初戦で右手中指の爪と皮膚がはがれてしまい、2回戦の開星高戦ではその影響でスライダーがまったく投げられず、打ち込まれてチームに迷惑をかけてしまったのも思い出としてすごく残っていますね」
数々のピンチを切り抜け、吉永さんは、ついに決勝戦で勝利し、深紅の大優勝旗を手にした。シンカーを操り、相手バッターを手玉に取る「三高の吉永」は、甲子園のヒーローとなった。
「本当、かけがえのない経験でしたし、自分の人生において大きな出来事でした」
まるで遠くを見つめるように、吉永さんは続ける。
「特に野球に関係する場所にいくと、僕のことを知っている方々が多くいらっしゃいます。時にいい意味でも悪い意味でも影響することはあるのですが、そこは自分次第だと思っているんです。最初から知られているなかで頑張ることができれば、若干のアドバンテージになることもあるので、そういった意味では、あの優勝があってよかったなって思っています」
ひとつの結果が人生を左右することもある。ただ、それをよりよいものにしていくのは、最終的には自分次第である。
みどりの窓口業務を始めて2年。利用客から「吉永さんですか?」と声をかけられたことはないのだろうか。
「よく他の人からそのことについて質問されるんですけど、実際にはこの2年でひとりだけでした。まぁ、あれから10年経っていますし、(コロナ禍で)マスクをしての業務でもあるので。ただ、ひとりだけであってもお声かけいただいた時は、すごくうれしかったですね」
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みどりの窓口で駅員業務にあたる吉永さん(写真=JR東日本提供)
そう言って吉永さんは表情をほころばせた。
プロも注目した超高校級の甲子園優勝投手。選手としてその後も栄えある時間を過ごすかと思われたが、奇しくも吉永さんは苦難の野球人生を歩むことになる。
(インタビュー後編につづく)
【プロフィール】
吉永健太朗 よしなが・けんたろう
1993年、東京都生まれ。2011年「第93回全国高等学校野球選手権大会」に日大三高のエース投手として出場し、優勝。その後、早稲田大、JR東日本で野球を続け、2019年に引退。現在は、JR東日本社員として駅員業務を担っている。