ウマ娘の
オグリキャップは、とにかくよく食べる。たとえばアニメ版では、
オグリキャップが登場する際、必ずといっていいほど大量の食事をしていた。走るのと同じくらい、食べることが好きな性格なのかもしれない。
こんなキャラクターになったのは、実際の競走馬オグリキャップが大食いで有名だったから。牧場時代、雑草でも何でもとにかく口にしていたという。現役時代も、いくら過酷な連戦で疲労が溜まろうと、食欲だけは落ちなかった。
そんな逸話を持つオグリキャップだが、この馬を語るうえで欠かせないのは引退レースでの復活劇だろう。地方競馬で圧倒的な強さを見せ、やがて中央競馬に殴り込んだオグリキャップ。引退レースまでにG?を3勝し、競馬の枠を超えた国民的スターホースになっていた。そのオグリが突如不調に陥り、5歳(旧6歳)となった1990年の夏から秋に3連敗を喫したのである。そこで陣営は、12月の有馬記念(中山・芝2500m)での引退を決め、最後のレースに送り出したのだ。
スターホースの引退戦。競馬ファンだけでなく、日本全国の人々が見守る中、オグリキャップは勝利を手にしたのである。まさしく競馬史に燦然と輝く感動のシーンだ。
詳しい有馬記念の話は記事の最後にとっておくとして、このレースでオグリキャップの復活を託されたジョッキーが天才・武豊。そうして勝利を手にしたのだから、これ以上のドラマはない。この有馬記念をもって、オグリキャップと武豊をベストコンビという人も多い。
ただ、このコンビで挑んだレースはもう1つある。それが、1990年5月のG?安田記念(東京・芝1600m)だ。そしてこのときも、完璧な勝利を飾った。その走りを振り返ると、改めてオグリキャップと武豊はすばらしいコンビだったと思える。
安田記念に挑んだのは、5歳の春。オグリキャップはこのとき、すでに国民的なアイドルホースになっていた。先述のように、デビューの舞台は地方競馬の笠松競馬。良血馬や期待馬は中央競馬でデビューするのが一般的で、地方競馬は下部リーグのようなもの。しかしオグリキャップは、1987年に2歳でデビューすると、その笠松競馬で12戦10勝の成績を残した。そして3歳春、あまりの強さから中央競馬に移籍する。
いくら笠松で強くても、中央競馬のレベルは3枚も4枚も違う。通用するのは簡単ではない。しかし、オグリは別格だった。中央移籍から怒涛の6連勝。それもすべて重賞レース。地方から中央にやってきた怪物、それでいて愛嬌ある芦毛の馬体が相まって、実力も人気も一気にトップクラスとなった。
3歳冬には、有馬記念で初のG?タイトルを獲得。笠松からやってきた1頭のサラブレッドが、全国の頂点に立った瞬間だった。
そして4歳となった1989年、この年の秋にオグリは伝説を残した。11月のG?マイルCS(京都・芝1600m)で、バンブーメモリーとのマッチレースを制すると、なんと翌週のG?ジャパンカップ(東京・芝2400m)に出走したのである。
競走馬が2週連続で走るケースは、非常に少ない。レースでの疲労が抜けきらないためだ。ましてG I。競馬界では「連闘」と呼ばれるが、G?を連闘するなど前代未聞だった。しかしオグリキャップは、ニュージーランドのG?2勝馬ホーリックスとマッチレースを演じ、クビ差の2着と健闘したのだ。
驚くべきは、その勝ちタイム。計測された2分22秒2は世界レコードだった。オグリキャップも負けはしたが、同タイムで走りきったのである。
続く2度目の有馬記念は、疲れもあってか5着に敗退。そこから翌5歳の春まで休み、待望の復帰を果たしたのが、武豊と挑んだ安田記念である。
当時、競走馬のスターがオグリキャップなら、ジョッキーのスターは武豊だった。1987年の騎手デビューからわずか3年、G?を6勝し、リーディングも獲得した。そんな天才騎手とオグリキャップの邂逅に、世間は熱狂したのである。
そしてこのレースは、オグリキャップの中でも1番と言えるほどの「完勝」だった。スタート後、初コンビとは思えぬ息の合い方で、すかさず2番手につける。そのまま直線に入ると、武はほとんど手を動かさず、いわゆる"持ったまま"の状態で先頭に立った。
一気に熱狂する東京競馬場。このとき、外からシンウインドが猛烈な勢いでオグリに並びかけてくる。普通なら、相手にかわされまいと、武もゴーサインを出して応戦するだろう。
しかし、実際は違った。シンウインドが必死に並びかけ、鞍上の南井克巳がムチを振るうのに対し、武の手はまだ動かない。いまやライバルがかわそうかとしているのに、微動だにしないのだ。つまり、相手にしていなかったのである。まだここでスパートする必要はないと。
そして、持ったままの状態で先頭をキープし、一度並びかけたシンウインドは逆に後退。完全に抜け出したオグリキャップは、ようやく武の合図とともにスパートして後続を突き放した。
勝ちタイムの1分32秒4はコースレコードであり、2002年の東京競馬場改修まで、ついに破られることはなかった。
その後、別のジョッキーと組んで3戦したオグリキャップは、2着、6着、11着と3連敗してしまう。特に11着という2ケタ着順は今までにないもの。このとき、ファンから「オグリを引退させろ」と脅迫する手紙なども届いたという。
陣営は、有馬記念で引退することを決断。そしてこのとき、最後の手綱を託したのが武豊だった。
有馬記念はファン投票で出走馬を選出するレースであり、オグリキャップはファン投票1位で出走した。当日の単勝オッズは4番人気。もちろん、勝利を信じている人もいただろうが、それよりは、オグリ最後のレースの応援を込めて馬券を買った人が多かったのではないか。
それほど、どんなときでも頑張ってきたオグリキャップが11着に敗れた事実は深刻だったのだ。
この日、中山競馬場を訪れたのは17万7779人。いまだにレコードである。その大観衆が見守る中、有馬記念のゲートが開くと、オグリキャップは中団6、7番手を追走していく。
3コーナーで外からすっと押し上げると、3番手、2番手とポジションを上げていった。
そして直線。まるで前走の敗戦が嘘のように、力強くオグリキャップが先頭に立つ。場内は地鳴りのような歓声になった。ライバルも内外から迫り来るが、最後まで振り切って、引退レースを制したのである。
ゴール後の熱狂、ファンたちの興奮は頂点に達した。やがて17万人のファンたちは、一斉にオグリコールを始めた。その声に応えるオグリキャップと武豊。間違いなく、競馬界に残る最高のシーンといえる。
地方から中央に進出し、社会現象を巻き起こしたオグリキャップ。馬産や育成の技術が進んだ今、地方に流れた馬が中央のエリートをなぎ倒すような物語は簡単に起きないかもしれない。それでも、いつかまたこんな1頭が出てくる日を期待したい。サラブレッドは、人に夢を与えてくれる。そう確信させてくれたのが、オグリキャップである。