ニューストップ > スポーツニュース > 高校・アマ野球ニュース
Sportiva
「いま思えば(期待されることは)ありがたいことだったのですが、注目をプレッシャーに感じてしまったんです。苦しかった記憶しかありません。今となっては『何をそんなに深く考えてしまったのか』と思うのですが、『変なピッチングはできない』とか、周りの目ばかり気にしてしまって……」 今までにない眩いスポットライトを浴びて、村松は自らを見失ってしまった。天竜中学の軟式野球部時代は静岡県大会にも出られず、光星学院(現・八戸学院光星)では、”背番号7”の2番手投手。3年春のセンバツで甲子園出場を果たしたが、3安打を放った坂本勇人(現・巨人)らと比べると地味な存在だった。 それが3年夏の青森大会決勝戦で敗れてから毎日のように練習に励むと、ボールにかつてない指のかかりを覚えた。すると、大学入学まもない1年春に153キロをマークした村松は、チームの開幕投手を任され、そこからわずか3カ月で日米大学野球の最高殊勲選手まで急スピードで駆け上がっていった。 それゆえ、反動も大きかった。心と体の歯車が噛み合わず、故障も重なり、フォームを崩してしまった。 4年秋にチームは創部初となる全国大会出場を決めたが、村松はベンチ外。学生野球の最後を応援席で終えることになった。 村松にとって、最後のリーグ戦勝利となったのが3年春の青山学院大戦だ。この時は人目もはばからず号泣した。
「最後まであきらめずに指導しつづけてくれた竹田利秋監督(現・国学院大総監督)や、自分がマウンドに上がった時に声をかけてくれる仲間の思いに応えたいと、ずっとやってきたんです。青学に勝った時は、1学年上の先輩たちが一緒に走ってくれたり、自主練習にもたくさん付き合ってくれて……。自分が勝てたという安堵の気持ちより、そうやって助けてくれた人たちの顔が思い浮かんで涙が止まりませんでした」 大学卒業後は社会人野球のかずさマジックでプレーしたが、5年間で全国大会の登板は1イニングのみ。村松の世代は、高校の同級生である坂本をはじめ、田中将大(ヤンキース)、前田健太(ツインズ)、會澤翼(広島)ら、錚々たる顔ぶれが並ぶ。そんな同期たちの華々しい活躍に刺激を受けて「プロを目指していました。鼻で笑われようと、引退する時までは……」と思い続けたが、叶うことはなかった。 2015年に現役を引退すると、自宅からも近く、同じ国学院大OBの島田孝行氏が監督を務める清和大のコーチに就任。平日は会社員として働き、休日に部員たちの指導にあたっている。 指導者となった今、「一番うれしかった」と振り返る、最後の白星を挙げた時の気持ちを選手たちにも感じてほしいと願う。
「今の学生には、仲間の大切さをもっともっと大事にしてほしいんです。野球はひとりではできない。いろんな人のサポートがあるから、試合に出るメンバーは何の不自由もなく練習に打ち込めるんです。そういう技術以外のところをもっと感じてほしいんです」
チームは昨年秋の入替戦を制して千葉県大学リーグの一部に復帰した。
「初めて来た時から思っていますが、本当に楽しみな選手が多いんですよ。六大学や東都に比べたら、エリート選手はいません。みんな(高校)最後の夏に悔しい思いをしている子が多い。そのなかでも『こうなったら面白いな』『この子は絶対に伸びてくる』と、楽しい目で見ています。野球は面白いですし、奥が深いんです」 野球への探究心は増すばかりだと言う。だからこそ、聞いてみたくなかった。「もしも今、目の前にかつての自分がいたら、どのように指導しますか」と。 すると村松は「苦しんでいる自分がそこにいるんですよね? 難しいな……」と考え込んだあと、「間違いなく言えることはあります」と言葉を紡いだ。「今は、当時と意識や考え方は真逆です。当時は『昔はこうだったよな』と過去の自分ばかり追い求めていた。でも、それがダメなら新しい自分をつくらないといけません。今が大事で、過去がどうとか関係ない。だから僕は伸びなかったんです」 13年前、19歳の村松が描いた未来とは、まったく違うところに来たのかもしれない。だが、彼の野球人生は今も幸せに続いている。それはあの夏と変わらない。