「俺、何もしていないんでね」
20年前の1999年ワールドユース(現U−20W杯)・ナイジェリア大会を振り返って、
稲本潤一は苦笑してそう言った。
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1999年ワールドユースについて語る
稲本潤一 稲本は、同大会に挑んだU−20日本代表のチームの立ち上がりから、中心選手のひとりだった。
1995年U−17世界選手権(現U−17W杯)・エクアドル大会に、小野伸二や高原直泰らとともに出場。その後、1998年アジアユース(ワールドユースアジア最終予選)でも主力メンバーとして活躍し、1999年ワールドユース出場権獲得に貢献した。そして、A代表と兼任でチームを率いることになったフィリップ・トルシエ監督が指揮官に就任。1999年2月のブルキナファソ遠征では、キャプテンに任命された。
「なんで(キャプテンに)なったんか、全然覚えていない。トルシエ監督に『やれ』と言われたからやと思う。
(当初)みんなは、トルシエ監督の指導には面食らっていた。胸ぐらをつかまれたり、急に『走ってこい』って怒鳴られたりして、めっちゃ厳しかったから。なんか、監督と選手というより、先生と生徒みたいな感じやった。
でも、自分は(当時所属の)ガンバ大阪で(フレデリック・)アントネッティ監督のもとでやっていて、フランス人の”熱い”ところとかをわかっていたので、(トルシエ監督の指導にも)そんなに驚くことはなかった」
ブルキナファソ遠征では劣悪な環境のなか、練習と試合が続いて「めっちゃメンタルが鍛えられた」という。そこで、チームのベース作りも仕上がって、本大会でもそのまま稲本がキャプテンを務める予定だった。
ところが、遠征から所属のガンバに戻って、Jリーグ開幕前の練習試合で膝を負傷した。最初は大したケガではないと思っていたが、検査の結果、重傷だとわかった。
本来であれば、治療に専念すべき状態だったが、稲本はワールドユース出場をあきらめることができなかった。代表メンバー18名に選出されるには、メンバー決定前のJリーグの試合で、プレーできる状態であることが必須だったため、彼はある決断を下す。
「ガンバで試合に出るために、膝に注射を打って(試合に)出ていました。ほんまは(大事をとって)ガンバでは試合には出場せず、ナイジェリアに行きたかったんやけど……。そのために、結構無理をしましたね」
無理をしたのは、稲本なりの計算があってのことだった。
「もちろん、メンバーに選ばれることが最優先。それに、グループリーグは3試合あるじゃないですか。注射を打てば3試合のうち、どこかで少しはプレーできるだろうし、それが無理でも、決勝トーナメントに進出すれば、十分にプレーできる感覚があった」
無理した甲斐もあり、またトルシエ監督の信頼も大きかったのだろう、稲本は18名のメンバー入りを果たした。
だが、無理をしたこともあってか、膝のケガの回復は遅れていた。ナイジェリアに入る前のフランス合宿では、最後の練習試合にも出られず、クーラーボックスの上に座り込んで、厳しい表情を浮かべていた。
「あの時は、ほんまに膝が痛くて……。大会に入ってからも痛みが引かず、チームにかなり迷惑をかけた。自分はやる気満々でいたし、そのうち『治るやろ』って思っていたけど、甘かった……」
大会が開幕しても、稲本は膝の痛みを抱えたままだった。トルシエ監督の練習は、紅白戦などの実戦練習はほとんどなく、イメージトレーニングが中心だった。その分、練習で注射を打つことはなかったが、試合となればいつ出番がくるかわからないため、試合前には注射を1本、必ず打っていた。
注射を打つことで膝に負担をかけることになるが、それよりも「試合に出たい気持ちが勝っていた」と、稲本は当時を振り返る。
結局、グループリーグ3試合で稲本の出番はなかった。その間、稲本は”控え組”として、播戸竜二らとともにチームの盛り上げ役を果たした。
稲本は、当時最年少の17歳6カ月でJリーグデビュー。若くして、チームの主力選手となっていた。この代表チームでも同様で、ブルキナファソ遠征ではキャプテンを務めた。しかし、大会本番ではベンチに座る境遇となり、違和感を覚えることはなかったのだろうか。
「(違和感は)ぜんぜんなかった。(試合に出られず)気持ち的に難しい、ということもなかった。体調が万全やなかったし、膝が痛いので、90分試合に出るのは無理やった。そんな選手が文句を言っている場合じゃないでしょ。
試合(に出ること)がどうこうよりも、自分はこのメンバーでナイジェリアに来られていることがうれしかった。このチームって、部活みたいな感じで、みんなと一緒にいるのが楽しいんですよ。しかも、(選手みんなが)同じ価値観でサッカーをやっていた。
だから、ベンチにいても『みんなのために』って思えたし、『このチームのためにできることは何やろう』と考えて、勝手にモチベーションを上げて振る舞っていた。今までのサッカー人生で、ベンチに座ることに抵抗がなかったのは、このナイジェリアワールドユースと(2010年の)南アフリカW杯のチームの時だけ。(2006年の)ドイツW杯の時は、ベンチにいることにめちゃくちゃ抵抗があったんで……」
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「チームのために」モチベーションを上げて振舞っていたという稲本(写真右から3番目)。photo by Yanagawa Go
稲本の表情に一瞬、緊張感が走る。
ドイツW杯の時と、ナイジェリアの時では、何が違ったのだろうか。
「ドイツW杯の時は『試合に出たい』という、わがままな自分の気持ちが強かった。それで、(試合に)出られないことに、不平不満をこぼしていた。
一方で、ナイジェリアの時はレギュラー選手たちを『盛り上げていこう』と、自然とチームのことを考えることができていた。それができたんは、やっぱり同世代だし、このチームで『勝ちたい』という気持ちが強かったからやと思う」
膝に注射を打ち、無理して所属クラブの試合に出るまでして、行きたかった大会。そのチームにいられること自体が、当時の稲本にとっては重要なことだった。だからこそ、控えという立場も素直に受け入れて、チームのために尽力することができた。
それは、開催地がナイジェリアだったことも、多分に影響したはずだ。もし名門クラブのスカウトが集う欧州で開催されていれば、稲本をはじめ、他の控え選手たちも、試合出場への意欲をより明確に、かつ貪欲に見せていたかもしれない。
ともあれ、稲本にとっては、このナイジェリアでの経験とドイツW杯での苦い経験が、南アフリカW杯で生かされることになる。
「代表チームにとって、サブの選手が作り出す雰囲気が間違いなく重要やし、そこからの突き上げも大事やと思う。とくに短期決戦では、その空気がチームに与える影響は大きい。
ドイツW杯はうまい順にメンバーに入った感があって、みんな個性が強すぎた。だから、試合に出られへんメンバーは(その状態に)我慢ができんかったし、その(不満の)空気がそのままストレートに出ていた。
でも、南アフリカW杯の時はメンバーのバランスがよかったし、(チーム全体に)『このままじゃ、ヤバい』という危機感があった。選手みんなが『文句を言っている場合ちゃうやろ』っていう状況やった。そうやって、『チームが勝つことが一番大事なんや』っていうところは、ナイジェリアの時と共通していたね」
稲本が、ワールドユースで初めて試合に出たのは、決勝トーナメント1回戦のポルトガル戦だった。後半21分にFWの永井雄一郎に代わって出場。延長前後半もプレーし、チームはPK戦の末に勝利を飾った。
次に出番が訪れたのは、2−1で勝利した準決勝のウルグアイ戦だった。続く決勝のスペインでも途中出場を果たすが、稲本はこのウルグアイ戦が最も印象に残っているという。
「ウルグアイ戦は、試合に勝ったうれしさと、途中出場して途中交代させられた悔しさと、ふたつの意味で印象に残っています(苦笑)」
このウルグアイ戦、稲本は後半の頭から出場するが、わずか11分後には交代を命じられたのだ。
「最初、『交代!』って言われたときは、『えっ、俺なん?(本当に)俺?』って思った。まあ、体が重かったし、(自分でも)『動けへんなぁ』っていうのはあったけど、まだ『ここからできるやろ』って思っていたんで。でも、まさかの交代。『11分で判断するんや』って、びっくりした。
ベンチに戻った時は、『早いな』ってみんなイジられたし、自分も『なんやろうなぁ』って思ったけど……。あそこで交代のジャッジができるところに、トルシエ監督のすごさがあるなと思った」
試合後、トルシエ監督は会見で「稲本が試合の中に入り切れず、集中力を欠いていた」と、その交代の理由を説明した。
ウルグアイに勝って、日本はついに決勝へ駒を進めた。相手は強豪スペイン。累積警告でキャプテンの小野は出場停止となったが、スタメンにひとつ”空席”ができた。
「舞台は整った。『俺の出番やな』と思っていましたね」
稲本は帰りのバスの中で、早くも決勝戦に向けて気持ちを切り替えていた。
(つづく)
稲本潤一
いなもと・じゅんいち/1979年9月18日生まれ。大阪府出身。SC相模原所属のMF。ガンバ大阪ユース→ガンバ大阪→アーセナル(イングランド)→フラム(イングランド)→ウェスト・ブロミッジ・アルビオン(イングランド)→カーディフ・シティ(イングランド)→ウェスト・ブロミッジ・アルビオン(イングランド)→ガラタサライ(トルコ)→アイントラハト・フランクフルト(ドイツ)→スタッド・レンヌ(フランス)→川崎フロンターレ→北海道コンサドーレ札幌