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山本五十六は中国での戦火拡大をどんな思いで見ていたのか~日中戦争からアジア太平洋戦争への連続性の視点

 8月の終わりに新潟県長岡市を日帰りで訪ねました。日本の敗戦から80年の今年、見ておきたいと思った場所がありました。山本五十六記念館です。
 山本五十六は旧日本海軍の軍人。1941年12月、米国、英国を相手に開戦した当時の連合艦隊の司令長官でした。実戦部隊のトップです。戦死後に元帥に列せられました。「アジア太平洋戦争」とも呼ばれるこの戦争を通じて、今日でも広く名前が知られている軍人の一人だと思います。
 各国の海軍が戦艦の主砲の大きさを競い合っていた往時にあって、早くから、航空機の優位性を見抜き、海軍の航空部隊の育成に力を注いだこと、米国の駐在武官の当時に米国の工業生産力を知り、対米戦の回避を信条としていたこと、海軍省次官の当時には米内光政大臣、井上成美軍務局長とのトリオで、ドイツ、イタリアとの三国軍事同盟に「米国との戦争を招く」として反対を貫いたことなどが、一般には知られていると思います。
 山本は1943年4月、南方の最前線を視察中に、ソロモン諸島ブーゲンビル島の上空で、搭乗機が米軍機に撃墜され、戦死しました。長岡市の記念館には、その搭乗機、一式陸上攻撃機の主翼の一部が展示されています。
 記念館で購入した展示図録の説明によると、山本の生誕100年の1984年、「山本元帥景迎会」がブーゲンビル島のジャングルを訪ね、搭乗機の残骸の前で慰霊祭を行いました。その後1989年に、現地政府の好意で、左翼の一部が長岡に運ばれたとのことです。
 館内は撮影禁止ですので写真は撮影していません。記念館の公式サイトに、写真が載っています。
※山本五十六記念館トップ
http://yamamoto-isoroku.com/

 当時の海軍機でよく見られた塗装だった濃緑色の翼に描かれた赤い日の丸。撃墜時の衝撃を物語るように、あちこちが引き裂かれた傷だらけの金属片です。傍らには、山本が座っていた座席も展示されていました。あの戦争が確かにあったことを実感しました。貴重な展示です。

 本意は対米戦に反対であったとしても、実戦部隊のトップとして否応なく作戦を立案しなければならない立場でした。戦争が避けられなくなると、当時としては常識破りだった空母機動部隊を主力にしたハワイ・真珠湾への奇襲攻撃に踏み切り、最期は最前線での戦死でした。
 開戦後、米国は国力に物を言わせて空母や航空機を増産し、日本海軍は物量で対抗できなくなっていきます。山本が掲げた空母機動部隊中心の海軍は、日本ではなく米国が実現させました。
 これらの経緯から、山本に対しては、ある種の「悲運の名将」のニュアンスの文脈で語られることが少なくないように思います。
 わたし自身も長く、そのような認識でいました。最近、別の側面から見れば、山本という軍人の歴史的な評価、さらには日中戦争からアジア太平洋戦争へと至る日本の戦争の歴史的な意味あいは違って見えてくるのではないか、と考えるようになっています。
 きっかけは、このブログの一つ前の記事で紹介した岩波新書「南京事件 新版」(笠原十九司)です。

news-worker.hatenablog.com

 この記事では、以下のようなことを書きました。

▽対米戦への連続性
 本書の「南京事件」の表題は広義の呼び方です。日本軍の残虐行為は、南京占領後だけではないし陸軍部隊によるものだけでもない、との視点です。南京への進撃途中にも残虐行為はありました。さかのぼれば、盧溝橋事件の当初は現地解決が図られていたのに、戦火は上海に飛び火し、さらに全面戦争へと戦火が拡大していく過程には、海軍が大きく関与していました。南京侵攻に先立つ海軍航空部隊による南京の戦略爆撃は、住民への無差別殺戮行為です。海軍の関与をも重視した、より広い視野で「南京事件」としてとらえる視点は重要だと感じます。
 太平洋戦争開戦前の海軍と言えば、米内光政海軍大臣、山本五十六次官の当時に、日独伊の三国同盟締結に反対を貫いていたことが知られています。米国との戦争を招く、というのが主な理由でした。「不戦」「非戦」を志向していたイメージがあります。
 しかし、実際には海軍が日中間の戦火拡大に重要な役割を担い、その果てに対米戦争に至りました。日中戦争と太平洋戦争は連続しており、対米英開戦と同時に日本が命名した「大東亜戦争」の呼称は、戦争の性格をよく表しています。
 米国との戦争、つまり世界大戦に進むことを回避するのなら、中国との戦争の拡大を避けるべきだったのではないか、と感じます。陸軍に比べて「平和的・開明的・国際的」だったとの「海軍善玉イメージ」(本書「新版に寄せて」より)は史実に反すると感じます。
 こうした視点に立てば、「戦争体験の継承」の上でも、太平洋戦争に先立つ日中戦争の実相に目を向けることの意義は大きいとあらためて感じます。

 盧溝橋事件から上海事変、そして南京攻略へと戦火が拡大し、中国との全面戦争に進んで行ったのは1937年のこと。当時、山本は海軍次官でした。海軍省は軍政を担当します。軍事作戦である軍令は天皇直属の軍令部の担当でした。陸軍では参謀本部です。
 中国での作戦行動に対し、海軍省にいる山本は直接の当事者ではありませんでした。戦火の拡大に直接、口を挟む立場ではなく、その権限もなかったはずです。そうだとしても、中国との戦争が抜き差しならない状況に陥っていけば、やがては米国と衝突せざる得ないことが分からなかったはずはなかったのではないか、と感じます。
 南京を始め中国の都市を爆撃した海軍の陸上攻撃機は、山本が生みの親とされます。この「戦略爆撃」は後に米軍が取り入れ、太平洋戦争の末期にはB29の大編隊が日本中の主だった都市を焦土にし、非戦闘員である住民が犠牲になりました。山本の出身地の長岡も、45年8月1日深夜から2日未明にかけて空襲を受け、犠牲者は1480人余りに上ったとされます。
 戦争の結末を山本自身は知ることがありませんでしたが、中国との戦争で、陸軍だけでなく自らが育成に尽力した海軍航空部隊も戦火を拡大させていった、つまりは結果的にせよ、米国との戦争へつながる道をひたすら進んで行ったさまを、どんな思いで見ていたのか。それいかんでは、軍人としての山本五十六のイメージも変わってくるかもしれないと感じます。

 敗戦から80年がたって、直接あの戦争を体験した世代がいなくなるのも間もなくです。その中で、このブログの一つ前の記事でも触れたように、沖縄戦や南京事件を巡って、歴史否定の言辞を公然と口にする国会議員が現れています。歴史から教訓を導き、社会で共有することが必要だと痛感します。「戦争体験の継承」と言ったときに、新聞などマスメディアの報道でも、これまでは米国との戦争が大半を占めていたように感じます。米国、英国との太平洋戦争に先立つ日中戦争からの連続性の視点で、あらためて戦争の歴史をとらえ直し、社会で共有することが必要ではないか-。この夏の終わりに、そんなことを考えています。




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